エッセイ・雑文 / 自選「創作日記」07/2002〜
2002年7月より2004年3月まで間に書いた旧『創作日記』の中から、
幾許か読む価値もあるのかも知れないと思われるいくつかの雑文を選び、
物によっては文章に手を加え、自分の無恥を顧みず再掲載することにいたします。
新しい長文などを執筆した際もこのページに掲載しています。
ヴェーベルン (2002/08/02)
ヴェーベルンが好きだ。
パッサカリア(作品1)以前のヴェーベルンの作品をご存知だろうか。『夏風のなかで』などは結構メジャーかもしれない。他にもチェロとピアノの小品や弦楽四重奏のための作品など多々ある。しかし、この人から立ち昇るヴィーン臭さは、いつ聴いても凄い。作品1以前からずっと順を追って作品を聴いてみると、晩年までそのヴィーン臭さが一貫しているのがわかる。リヒャルト・シュトラウスから器用さとお金と怖い女房を取り上げたような朴訥で健全なヴィーンだ。もはや本能というか。「趣味は山登りや花を観察すること、日課は森を散歩することで、この間はヴァーグナーを観て感激しました!尊敬する歴史上の人物はJ・S・バッハです。」なんて、聞いているこっちが照れるくらい正直な典型的ヴィーン男。音楽だってもう典型的なドイツ人のロマン。郷愁と言っても良い。とにかく不器用なくらいヴィーン男の節回し。予想通りのところでユニゾンになったりターンがでてきたり。
一般的にヴェーベルンは後期ロマン派に別れを告げてミニチュアールな様式に云々、簡潔さを旨とし最小限の音を用いて云々、音列が音楽を構成する様々な要素にも云々、などと言われているわけで、大学時代の現代音楽の講義ではご丁寧にヴェーベルンの「弦楽四重奏のための5つの楽章」を流して、これで20世紀の音楽が始まり云々、などと、教授さんだって当たり前のようにおっしゃっている。
本当にヴェーベルンは後期ロマン派に別れを告げた人物だっただろうか。
1914年に書かれた「女性独唱とオーケストラのための3つの歌曲」の歌詞はヴェーベルン自身で書いているが、「ほのかな香り、優しいつぼみ」「夢見ごこちに女が花咲く」「燃えるような月、夜の口づけ」「涙流しわが幸せかみしめる」…もう、シューベルトが書いた歌詞くらい正直過ぎて読んでて恥ずかしい。これが不器用で夢見るロマンチストヴィーン男の言葉じゃなくて何だと言うのだ。
この不器用で実直で愛すべき人物の性格を考えると、彼の音楽が簡潔なのはただ単に次の音を決めるのに必死なだけだったんじゃないか。作品の演奏時間が短いのはただ12音そろったら次にやることがなくなっちゃっただけなんじゃないか。そんな風にさえ思えてくる。16歳のときのチェロとピアノの小品なんて不器用さが炸裂しているし、作品6なんて、もう、完全にヴィーン男が書くオペラだ。おまけに葬送行進曲まで入ってる。かわいいねぇ。フランス人ブーレーズが生理的に受けつける性質の音楽じゃないと思うんだが、なんで彼は若いころからヴェーベルンを好きなんだろう。一体どこが好きなんだろう。若いころのブーレーズはベルクを指して『誇張された感傷癖』が安易だとか唾棄すべきだとかいろいろ言っていたが、この言葉はむしろヴェーベルンにこそ当てはまる。ように思うんだがいかがだろうか。
ヴェーベルンを後の時代のトータル・セリーな発想で弾いている演奏を聞くと、ちょっとお寒いと思ってしまう。パッサカリアを新しい時代のオーケストレーションとして解釈している演奏もかなりお寒い。この人はあくまでもヴィーンの伝統的な美意識に基づいて作曲している。それはもう健康的なまでに徹底している。まさしく夢見ごこちにヴィーン男が花咲いた第二カンタータなんかを聴いて、僕はこの人の音楽に影響を受けることが、いわゆるセリーに結びつくとは、どうしても思えなくなるのだ。もしも彼が疎開先で夜中タバコを吸わなかったらどうだっただろう。ヴェーベルンに熱狂し彼に技法的に影響を受けたという後の世代の作曲家が書いたような作品を果たして本人が書いたかどうか。案外亡命後のシェーンベルクのように調性に戻っていたりする可能性もないとも言いきれないような気がする。なんせ不器用な男なんだから。
結局後期ロマン派の精神のままだったにも関わらず、その上辺の響きや様式から後期ロマン派への反逆児とみなされて一方的に祭り上げられた彼は、果たして理解に恵まれた作曲家と言えるのかどうか。しかもヴェーベルンを誤解した人間が20世紀の主流と呼ばれている位置にいる事実。なんというか、ヴェーベルンの肩を叩いて慰めたくなってくる。反逆なんて思いつくような男じゃない。(ベルクなら思いつくだろうが。)第二次ヴィーン楽派とは何だったのか、もう一度問い直す必要があると思う。百年前のヴィーンの素朴な、あの緑と食事の中で、そうした土地に生まれた人間の、そうした美意識の中で、さまざまな人間の語らいを経て生まれたということを、もう一度考えてみたい。そして今、やたらと物や情報に囲まれて生活を過ごす政治の得意な現在の人間が何を生み出そうとしているのか。きっとヴェーベルンの音楽は、今の時代にこそ音楽とは何かを問い直す力がある。今だからこそ、ヴェーベルンの音楽を美しいヴィーンそのものと解釈する演奏を聴きたい。
そんなこんなで、僕は、実直に郷愁を歌いつづけた愛すべきヴェーベルンが好きだ。
パッサカリア(作品1)以前のヴェーベルンの作品をご存知だろうか。『夏風のなかで』などは結構メジャーかもしれない。他にもチェロとピアノの小品や弦楽四重奏のための作品など多々ある。しかし、この人から立ち昇るヴィーン臭さは、いつ聴いても凄い。作品1以前からずっと順を追って作品を聴いてみると、晩年までそのヴィーン臭さが一貫しているのがわかる。リヒャルト・シュトラウスから器用さとお金と怖い女房を取り上げたような朴訥で健全なヴィーンだ。もはや本能というか。「趣味は山登りや花を観察すること、日課は森を散歩することで、この間はヴァーグナーを観て感激しました!尊敬する歴史上の人物はJ・S・バッハです。」なんて、聞いているこっちが照れるくらい正直な典型的ヴィーン男。音楽だってもう典型的なドイツ人のロマン。郷愁と言っても良い。とにかく不器用なくらいヴィーン男の節回し。予想通りのところでユニゾンになったりターンがでてきたり。
一般的にヴェーベルンは後期ロマン派に別れを告げてミニチュアールな様式に云々、簡潔さを旨とし最小限の音を用いて云々、音列が音楽を構成する様々な要素にも云々、などと言われているわけで、大学時代の現代音楽の講義ではご丁寧にヴェーベルンの「弦楽四重奏のための5つの楽章」を流して、これで20世紀の音楽が始まり云々、などと、教授さんだって当たり前のようにおっしゃっている。
本当にヴェーベルンは後期ロマン派に別れを告げた人物だっただろうか。
1914年に書かれた「女性独唱とオーケストラのための3つの歌曲」の歌詞はヴェーベルン自身で書いているが、「ほのかな香り、優しいつぼみ」「夢見ごこちに女が花咲く」「燃えるような月、夜の口づけ」「涙流しわが幸せかみしめる」…もう、シューベルトが書いた歌詞くらい正直過ぎて読んでて恥ずかしい。これが不器用で夢見るロマンチストヴィーン男の言葉じゃなくて何だと言うのだ。
この不器用で実直で愛すべき人物の性格を考えると、彼の音楽が簡潔なのはただ単に次の音を決めるのに必死なだけだったんじゃないか。作品の演奏時間が短いのはただ12音そろったら次にやることがなくなっちゃっただけなんじゃないか。そんな風にさえ思えてくる。16歳のときのチェロとピアノの小品なんて不器用さが炸裂しているし、作品6なんて、もう、完全にヴィーン男が書くオペラだ。おまけに葬送行進曲まで入ってる。かわいいねぇ。フランス人ブーレーズが生理的に受けつける性質の音楽じゃないと思うんだが、なんで彼は若いころからヴェーベルンを好きなんだろう。一体どこが好きなんだろう。若いころのブーレーズはベルクを指して『誇張された感傷癖』が安易だとか唾棄すべきだとかいろいろ言っていたが、この言葉はむしろヴェーベルンにこそ当てはまる。ように思うんだがいかがだろうか。
ヴェーベルンを後の時代のトータル・セリーな発想で弾いている演奏を聞くと、ちょっとお寒いと思ってしまう。パッサカリアを新しい時代のオーケストレーションとして解釈している演奏もかなりお寒い。この人はあくまでもヴィーンの伝統的な美意識に基づいて作曲している。それはもう健康的なまでに徹底している。まさしく夢見ごこちにヴィーン男が花咲いた第二カンタータなんかを聴いて、僕はこの人の音楽に影響を受けることが、いわゆるセリーに結びつくとは、どうしても思えなくなるのだ。もしも彼が疎開先で夜中タバコを吸わなかったらどうだっただろう。ヴェーベルンに熱狂し彼に技法的に影響を受けたという後の世代の作曲家が書いたような作品を果たして本人が書いたかどうか。案外亡命後のシェーンベルクのように調性に戻っていたりする可能性もないとも言いきれないような気がする。なんせ不器用な男なんだから。
結局後期ロマン派の精神のままだったにも関わらず、その上辺の響きや様式から後期ロマン派への反逆児とみなされて一方的に祭り上げられた彼は、果たして理解に恵まれた作曲家と言えるのかどうか。しかもヴェーベルンを誤解した人間が20世紀の主流と呼ばれている位置にいる事実。なんというか、ヴェーベルンの肩を叩いて慰めたくなってくる。反逆なんて思いつくような男じゃない。(ベルクなら思いつくだろうが。)第二次ヴィーン楽派とは何だったのか、もう一度問い直す必要があると思う。百年前のヴィーンの素朴な、あの緑と食事の中で、そうした土地に生まれた人間の、そうした美意識の中で、さまざまな人間の語らいを経て生まれたということを、もう一度考えてみたい。そして今、やたらと物や情報に囲まれて生活を過ごす政治の得意な現在の人間が何を生み出そうとしているのか。きっとヴェーベルンの音楽は、今の時代にこそ音楽とは何かを問い直す力がある。今だからこそ、ヴェーベルンの音楽を美しいヴィーンそのものと解釈する演奏を聴きたい。
そんなこんなで、僕は、実直に郷愁を歌いつづけた愛すべきヴェーベルンが好きだ。