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Kenichi Nishizawa ; Composer,Pianist
Mika Nishizawa ; Pianist
and , Piano Duo by Kenichi & Mika Nishizawa "Duo Frösche"

エッセイ・雑文 / 自選「創作日記」07/2002〜

2002年7月より2004年3月まで間に書いた旧『創作日記』の中から、 幾許か読む価値もあるのかも知れないと思われるいくつかの雑文を選び、 物によっては文章に手を加え、自分の無恥を顧みず再掲載することにいたします。 新しい長文などを執筆した際もこのページに掲載しています。

ケージ (2002/08/07)

現代音楽の作曲家は、自分とケージとの間にどのような距離を置くかという問題を付きつけられてる。と、僕が一年ばかし師事したK氏はおっしゃっていた。わが日本の作曲界でも、例えば○柳△氏のようにケージ本人に師事した人もいれば、西◇朗氏のように「僕はケージ嫌いです」とあっさり退ける人もいる。音楽と言う現象を根底から覆しちゃったこの人は、今でも絶賛や批難の議論の格好の材料だ。極点まで到達したという意味において、ロマン派に於けるヴァーグナーのような位置にいると言っても良いかもしれない。まさしくヴァーグナー以降の作曲家は、自分とヴァーグナーとの間にどのような距離を置くかという問題を突きつけられていたのだから。

さて、ケージを語るとき、お決まりのように「4分33秒」が出てきて、これまたお決まりのように「禅」「鈴木大拙」とくる。ふうむ。さすがにこれはもう止めようよ。と、言ってみたい。ちょっと考えすぎだし、作りすぎだし、出来すぎのような気がするのだ。東洋に興味があったからといって、ケージ本人の哲学が東洋化しているというのは馬鹿げている。鈴木大拙の本は確かに価値ある読み物だし、多分彼の講義も面白かったことだろう。そしてそれをケージは面白いと思った。ケージはそこからちょいとばかし方法論を拝借した。とまあ、単純なことではないか。

そんなこんなを考えると、実にケージは、典型的西洋人だと思うのだ。エゴン・シーレが写楽の影響を…つうか、まんまパクった姿がだぶる。最近流行りの、漢字をプリントした服を着ている西洋人みたいに、かっこいい!って素直に思ったんでしょうね。でもエゴン・シーレが写楽に影響された「油絵」を描いたように、ケージだって、きっちりと「第一楽章:休み。第二楽章:休み。第三楽章:休み」と「楽譜」を書いている。(ちなみに初演時の演奏時間は第一楽章から順に33秒、2分40秒、1分20秒とある。)自分達の方法論を使ってる。おいしいエッセンスだけ取って来てる。まあ、外国人だからこそ、良い!と思えるエッセンスをすぐに見分けられるってことは充分ある話。

恐らく彼の音楽は「思想」や「哲学」がベースにあるものではないだろう。純粋に「サウンド」が、でなければ「美意識」が基本だったのではないかと僕は考える。例えば「舞台上では音楽的な所作をしない」という作品を舞台上で書き上げている矛盾。なるほど、ここは禅チックに「非音楽的所作は非非音楽的所作なるが故に非音楽的所作である」などと言っても良いのかもしれないが、僕はケージがそこまで禅的な思考回路を基にしているようには思えないのだ。第一、純粋に禅的に音楽をするとなれば、それはすなわち一切音楽をしないということである。つまり4分33秒の作者としてすら名前を残すべきでは無かったということである。不徹底なわけですな。

しかし、まあ、4分33秒の作者がケージであったことを、やはり神に感謝しなければならないかもしれない。この作品を凡人が書いてしまったら、きっと何かテキストを書いて終わりにしてしまうと思うのだ。(その後のフルクサスの流れでは、やたらとそういう作品が書かれたわけだけど。)でもケージはちゃんと3楽章書いてる。律儀に「休み」とまで書いてる。自分のアイデアを表現する方法が実にアカデミックだ。願わくばAllegro moderatoくらいまで書いて欲しかったと思う。ここまでくれば完璧にその意思が読み取れる。つまり、まあ、結局、現行の楽譜では不徹底であることは確かだ。でも、ここらへんに、ケージの愛すべき「適当さ」があるともいえるし、やはり「思想」よりも「美意識」の人であるのだろう。

ケージがシェーンベルクとカウエルの弟子であったことは注目すべきことである。それはつまり二人とも前衛音楽家として名を知られながら、その実、人一倍アカデミックな精神を持っていたということ。おまけに晩年は調性音楽に戻ったという共通点まである。調性作品を書くことによってシェーンベルクは調性、非調性であることと独創的であることとは別だと言うことを証明しようとしていたし、カウエルは、音楽こそあらゆる実験や手段や伝統が、その価値を証明できる媒体であると信じていた。(晩年のカウエルが書いた「賛美歌とフーガの調べ(!)の、なんと切なくて甘酸っぱい美しい音楽!)つまり、ケージはもろに二人に影響を受けているではないか。

シェーンベルクからは「ヤツは作曲家じゃねえ。」といわれてしまったケージだけれども、僕はプリペアド・ピアノのための「ソナタとインターリュード」を聴くたびに、ああ、シェーンベルクのレッスンって厳しかったんだなあ、と思ってくすくす笑ってしまう。あの曲の書法は確実にアカデミックなレッスンの所産だ。シェーンベルクの作曲の教科書がにおう。ただちょっとばかしピアノの弦にモノが挟まってるだけだ。このプリペアドピアノも、必要に迫られて考案したものだったはずだが、後の時代の人間がこれをノイズミュージックの云々などと理屈付けしても、やっぱりつまらない。もう止めようよと言ってみたい。

笑っているケージの写真を見ると、この人はただ、面白ければいーんじゃないの?といってるだけに思えてしまう。クソ真面目な顔をしながらコイン投げなんて、普通に考えて出来ないんじゃないですかね。そしてそんなケージを聴いたルトスワフスキやドナトーニは、もっと自由でいいんだと開き直ることになる。もっと自分の感性に素直で良いんだと。やりたいことやりゃあいいじゃんと言うケージに影響を受けることは、僕は良いことだと思う。でもこの人から作曲の方法論を学ぼうとするのは、ちょっと違うと思う。なにやら深遠な思想の体現者として説明付けする時代も、もうお仕舞。面白いことのためには伝統に無頓着だったケージが、よもやひとつの伝統として論議されようとは、本人も思ってなかっただろう。 ケージは後に、ヴィルトゥオーゾ的な行為に他ならなかったロマン派時代の「創作」を、より根本的な、アカデミックな行為に引き戻した功労者として記憶されることになるのではないだろうか。


最後に一言。世人は「4分33秒」を、どうして「演奏しない間に聞こえる雑音が音楽だ」などと解釈できるのであろうか。あの楽譜のどこにも雑音を発しろという記述は見受けられないし、それに楽譜にある休符は雑音を発しろとの指示ではないのだから。ピアノのフタを閉めることだって本来は間違った演奏であるかもわからない。楽譜にある休符はピアノのフタを閉めろという指示ではないのだから。この音楽の演奏を聞くときは、咳やクシャミは楽章間にすべしである。