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Kenichi Nishizawa ; Composer,Pianist
Mika Nishizawa ; Pianist
and , Piano Duo by Kenichi & Mika Nishizawa "Duo Frösche"

エッセイ・雑文 / 自選「創作日記」07/2002〜

2002年7月より2004年3月まで間に書いた旧『創作日記』の中から、 幾許か読む価値もあるのかも知れないと思われるいくつかの雑文を選び、 物によっては文章に手を加え、自分の無恥を顧みず再掲載することにいたします。 新しい長文などを執筆した際もこのページに掲載しています。

ドビュッシー (2002/08/09)

実はフランスってやつが、どうも苦手だ。

好きな人や住んでる人には申し訳無いんだけど、どうも苦手。あ、いやいや、フランスは住む場所としたらものすごく住みやすくて快適な土地だと思う。金さえあればパリほど楽しい場所は無いだろうな。使いきれないほどの遺産があって別に人生他に何もやることが無ければ、僕だったらパリで悠々自適に生きる。

でもここで言っているのはフランスの文化の話。もちろんフランスの好きな作曲家、そりゃいますよ。オッフェンバックでしょ?フランクでしょ?オネゲルでしょ?あとは、ええと、ええと…。あ、でも、オッフェンバックはドイツ出身のユダヤ人だし、フランクはベルギー人だし、オネゲルはスイス人だ。だめじゃんか。

絵画でも文学でもそうだ。僕が好きなのはフランス生まれではなくて、発表の場を求めてパリにやってきた外国人なのだ。唯一僕が愛読している純粋なフランス人が書いた本がフローベールの『紋切型辞典』ってのも、ちょっとねえ。

この手の音楽を知り始めたころは、僕もドビュッシーやラヴェルが好きだった覚えがある。ラヴェルは今でも好きだ。ヴァイオリンとチェロの二重奏なんて傑作だ。あんなに上質な室内楽作品は音楽史上全体を見回してもザラにあるものではない。でもオーケストラの作品は、ちょっと僕の感情からは程遠いものだ。ドビュッシーに関して言えば、すべての作品において僕は何が良いのか、ちょっと分からない。

僕はここでドビュッシーをこき下ろそうとか思っているわけでは毛頭ない。そんな権限ないし。あ、フランス語で歌曲を書こうと思ったら、間違い無くドビュッシーは研究対象にすべき作曲家だろう。フランス語という、ちょっと歌曲にしにくい言語を、さすがうまく使っている。でも、僕、日本人だからな。ううむ。

ドビュッシーの音楽といえば、長調なのか短調なのか、どちらともとれる曖昧な和音。調を溺れさせながら、なのに調性概念からは離れる気が無い。倍音による音響を連用しながら突然機能性が再び顔を出したりする。旋法的な旋律に、その先方の構成音以外の和声をつける。と、数多く見出せる(伝統的立場から見える)矛盾。そんなドビュッシーの和声法と「牧神の午後」などで見せる管弦楽法が、その後の音楽界に多大な影響を与えたことは周知の事実。

しかし、コンセルヴァトワールの教授にどんな和声規則に従うかを質問され「自分の喜びに従う」と答えたドビュッシーの音楽を詳細に分析する意味は果たしてあるのかどうか。音響的に感覚的に発生した並行和音にいちいち和声分析する意味は全く無いし、ときにぶっきら棒なリズムの書法は目を覆うものがある。すべてが感覚的であって対位法もクソも無い。でもそれは悪いことじゃない。ちょっとばかし僕の好みじゃないだけ。

しかし、だからと言って、それらドビュッシーの特徴を挙げて、「自然」とか「繊細」とか、または「前衛」とか、そのようなキーワードを導き出すのはいかがなものだろうか。ドビュッシーの音楽は一点崩れたら全てが崩壊するようなバランスの上には成り立っていない。彼の書法は、まさしく和音を並行に、何の変奏もなしに移動させているだけであって、繊細なんかではなく、無骨だ。海のような予測つかない変幻自在な自然ではなくて、あらかじめ仕切りがあるプールのような人工物だ。たまたま7とか9とかが和音にくっついているから、ちょっと繊細っぽく聞こえているだけで、その音楽の単純なことは弾いてみればわかることだ。

ドビュッシーの音楽の魅力、というのなら、それはまさしく人工物の優しさだ。自然は優しくなんか無い。あなた、サバイバルナイフ一本も持たずに裸でジャングルで生きていけますか?ウソはいかんよ。ウソは。ヴェーベルンやバルトークの捉える自然とドビュッシーの捉える自然を対比させれば、それははっきりする。複雑さと繊細さは不可分の関係だ。世界各地の土着の民謡を聴けば分かる。

では、さてドビュッシーはブーレーズが散々力説していたかのような意識的な前衛であったのか。それも違うだろう。表現の自由を獲得しようなどという思想的な意思もなく、ただ単に快楽に聡い典型的フランス人であったのではないだろうか。

パリで2週間ばかり友達の家に厄介になっていたときに、彼のFAX用紙がなくなったので一緒に家電製品の店に行ったのだ。その店で目の前にいる店員に「あのー、すいませーん。」と言っても全く返事しない。「すいませーん!」シーン…。「あのー」シーン…。さて、その店員、何をしていたと思います?目の前にあるテレビで流れている映画を夢中になって見ていたのでした。あー、なるほどねぇ。

すべてが大袈裟で楽しいパリという街は人種も芸術も政治も文化も雑多なものの複合だ。タバコの吸殻やゴミは散らかっているわ、夜までにぎやかだわ、外に出れば食事はおいしいわ。享楽に満ち溢れているこんな国じゃ、そりゃあ真面目に働いてなんていられないだろうよ。客よりも映画の行方が気になるだろうよ。じっくり練りこむより自分の性感帯に訴えてくるような音楽が好きだろうよ。

でもそれは悪いことじゃない。いたずらに未知のシステムをあら探しする宗教みたいな集団行動に没頭するより、自分の性感帯を信じて一人で生きていくほうがウン百倍健全に決まってる。ただ、ドビュッシーから生態学的な影響を受けるだなんて、あまりにも理に叶ってない。そんな人が自然と称して、なんだかほんわかしたのを書いて、はい、これ、雲ね。そしたら雲、動くでしょ?そこに鳥とか飛んでくるから。ってのはあまりにもちょっと。ねえ。

ところで日本人は、なぜかフランス好きだ。著名な日本の作曲家なんて武満以下みんなフランス好きだ。うちの大学の教授さんなんてみんなパリからの洋行帰りだ。でも僕はフランス文化と日本文化に特別な絆なんて見出せないし、愛国心万歳の国と、そもそも民族って意識がない国では、文化の生成の仕方が違って当たり前だ。元来の日本の美意識は、もっと気付きにくくてさりげない複雑さと欠陥にも美を見出してしまう臨機応変さだ。欠陥をわざと作ってしまうくらいの織部式の美意識は、物質的になんでも揃ったほうがベターなフランスのそれとは遠い。遠いが対極とも言えず、当然近いとも言えず、まあ、そこそこ。

ドイツものしか輸入してこなかった日本の黎明期の音楽家たちがフランスに熱狂した理由はわかるし、あるいは戦争体験世代が外国産のものにやたら飢えていたのも同様、それは完全に芸術的な良心に基づいている。でも、今の作曲科の学生が書く「フランス臭」は、それこそ理由が無い。試験でそういう曲を書かせる大学システムは、もっとも意味が無い。

ま、そんな場所は置いておいて、さてフランスに影響を受けるとは一体どう言うことなのか。フランスは昔、絵画で浮世絵の影響受けてたじゃないか。なるほどねえ。写楽の手とかねえ。だから日本もフランスに影響受けて良いんだ。うん。良いと思うよ。でもそれが、ただ倍音に基づく音響を書くだけとかだったら、なんて寂しさだろう。フランスに影響を受けるとは一体どういうことなのか、ちょっと考え直して欲しいと思うのでした。