エッセイ・雑文 / 自選「創作日記」07/2002〜
2002年7月より2004年3月まで間に書いた旧『創作日記』の中から、
幾許か読む価値もあるのかも知れないと思われるいくつかの雑文を選び、
物によっては文章に手を加え、自分の無恥を顧みず再掲載することにいたします。
新しい長文などを執筆した際もこのページに掲載しています。
間 (2002/08/10)
教会という場所は結構すごい世界でありまして、教会オルガニストってのもすげえ職業です。どうすごいかというと、教会という場所は響く。やたら響く。とにかく響く。ってのは、行ったことある人は体験済みですよね。そんな中で、あんな、ばかでかいオルガンを弾く。パイプの空気の出口はあっちにもあればこっちにもあるし、そんなパイプの音があっち行ってこっち行ってあそこを跳ね返ってグルグル回り終えてから自分の耳に届く。ポカーンといつまでも音が残っている。
さて、そこでどんな問題が起こるのかと言うと、聞こえてくるオルガンの音を頼りに弾いていると、普通に考えてテンポがずれるわけですよ。それで礼拝となると、基本的に若者なんてのは神様なんて知ったこっちゃねーわけですから、教会にやってくるのは極楽浄土を目指す信心深いじいさんばあさんと、連れられてきた子供だったりする。で、じいさんばあさんは耳も遠いものだから賛美歌を歌うと間延びするし、子供なんて何も考えないで歌うから突飛なテンポで歌ったりする。
そんなものが渾然とグワングワンうねってて、さて、本当のテンポはどこなのやら。弾いている自分の指だけを頼るとずれるし、跳ね返り終えたオルガンの音に頼ってもずれるし、間延びしたじいさんばあさんの歌声に合わせてもずれるし、子供に合わせるのは間違い無く間違いだ。教会のオルガニストというのは、なんとなくそれとなく、たぶんココなんじゃないかなぁ?ってテンポで弾いていくものだ。
武満は著書の中でこんなことを言っている。「西洋には韻律やメトロノームや時間の単位のシステムがありますね…例えば室内楽奏団の理想は一人で弾いているように弾くことなのです。ところが、日本の音楽と言うのは異なった時間の層を重ね合わせます。合奏する三人の演奏家はめいめいが自分のリズムを守るでしょう。一人はゆっくり、もう一人はより速く、三人目は二人の中間くらい。そしてこの間の中にこそ日本人は美を見出すのです」
僕はこれを心の底から賛成する気分にはなれない。むしろ教会のオルガンに当てはまるではないか。老人はゆっくり、オルガン奏者の指はより速く、残響はとてつもなく遅く、子供はマキャベリスト。めいめいが自分のテンポを守っている。たまたま足を運んでしまった若者はさぞかし「正しくない」と腹を立てることだろう。まあこんな極端な例でなくとも、室内楽をやった経験のある人なら、あるパートは基本のリズムから少し離れてリベラルな関係になることが、逆に音楽的に揃って聞こえる要素になることがあるなどと言うようなことを経験として知っているはずだ。単純に縦キッチリ合わせればそう聞こえるってわけじゃない。
テンポってのは、西洋音楽においても、なんとなくそれとなく流れている、曖昧で抽象的で漠然とした概念だ。西洋人自身がそれに気付いてないだけだ。確かに一つ背骨のあるテンポ感が要求されることは間違い無いことだけれども、よりインテンポに聞こえるずらし方があるし、よりインテンポに聞こえるルバートもある。敢えて縦を揃えないことによって和音がより和音として揃って聞こえることもある。基本的に和音ってのは少しずれていたほうが、それがどんな和音なのかを把握しやすい。これは理論的な根拠を問う問題ではなくて、経験的に体験していくことだ。「間」が必要なのは西洋音楽だって一緒でしょうに。こんな武満の言葉にいちいち感動してちゃダメですよ。
もちろん日本の音楽が一つ背骨の通ったテンポ感でなされる音楽でないことは分かりきっていることだけれども、かといって当の日本人自身が「間」にこだわっているのかというと、さてどうだろう。と思う。本当に日本人は、日本の伝統音楽を聴いて、時間の層が重なり合っていることに注目して、それこそ美しいと思っているのかどうか。たとえば文楽とか歌舞伎とかをナマで見に行って感動する理由はソレですかね?「曾根崎心中」で感動するポイントは「間」ですかね?いやいや、舞台に関わっている全ての人が全体としてかもし出す雰囲気にこそ感動しないだろうか。同じ旋律線を複数が歌うことによって強調される効果ってものがあるだろう。果たしてそれを本当に日本人は「間」と捉えているのか。僕には疑問だ。
もっと極端なことを言えば、武満の言葉はそっくり逆にしても通用する可能性がある。古典的オーケストラが全員一致を目指すわけが無いだろう。それは空間的な配置と音色のヴァリエーションが増えることによって獲得できる表現の多彩さの喜びであって、広がりや多層であることを目指す音楽だ。室内楽が一人で弾いているように聞こえたら本当に面白いだろうか。奏者間の対位法的な掛け合いやテンポの操作こそ室内楽の魅力だろう。バロックの音楽は一人の音楽家に5人分の仕事を強いることだってある。たった一人でいても「全員一致」があり得ないのが西洋の音楽ではないか。日本の音楽のほうがもっと強烈に全体が一つの雰囲気にこだわっているフシがある。
西洋は動で東洋は静と相場が決まっているが、僕はこんなこと信じられない。ひんやりした空気の教会の賛美歌と、湿気の中の阿波踊りを見比べて、それでもその言葉を繰り返すことができるかどうか。要するに西洋にも動静があるし、東洋にも動静があるし、所詮人間の道楽、楽しむツボがそうそうかわるわけない。
西洋と東洋、あるいはその他の音楽の差はただ単に方法論の違いだけであって、僕は文化圏は違えど同じ人間の耳を楽しませている音楽で起きている現象が、土地柄によって根本的に違うものになるとは思えないのだ。じゃあ反復を基本とするアフリカとかの音楽はどうなんだと。そういうものには決まって踊りと言う視覚的な効果が加わってくるでしょうに。そしてそれはリズムの反復するバロック舞踊とまさしく同様だし、東洋の舞踊だって同じでしょうに。根本的には何も違いません。
東洋=静=禅=瞑想的なんて固定概念が一番よろしくない。竜安寺=禅=テツガクな気分で見なきゃ。なんて言ったら、面白い要素をみすみす見逃す結果になってしまう。自国の文化というのは得てして逆にエッセンスに気付きにくい。自国の文化に触れるときこそ、できるだけ固定概念やら頭の中の垢を払い落として、そのものズバリとして見ることをお勧めする次第なり。しかも今でも日本の美意識と称してオーケストラを分割して別々の時間帯を設ける作者は、固定概念とオールドファッションの信者と捉へ一笑に付すべし付すべし。
さて、そこでどんな問題が起こるのかと言うと、聞こえてくるオルガンの音を頼りに弾いていると、普通に考えてテンポがずれるわけですよ。それで礼拝となると、基本的に若者なんてのは神様なんて知ったこっちゃねーわけですから、教会にやってくるのは極楽浄土を目指す信心深いじいさんばあさんと、連れられてきた子供だったりする。で、じいさんばあさんは耳も遠いものだから賛美歌を歌うと間延びするし、子供なんて何も考えないで歌うから突飛なテンポで歌ったりする。
そんなものが渾然とグワングワンうねってて、さて、本当のテンポはどこなのやら。弾いている自分の指だけを頼るとずれるし、跳ね返り終えたオルガンの音に頼ってもずれるし、間延びしたじいさんばあさんの歌声に合わせてもずれるし、子供に合わせるのは間違い無く間違いだ。教会のオルガニストというのは、なんとなくそれとなく、たぶんココなんじゃないかなぁ?ってテンポで弾いていくものだ。
武満は著書の中でこんなことを言っている。「西洋には韻律やメトロノームや時間の単位のシステムがありますね…例えば室内楽奏団の理想は一人で弾いているように弾くことなのです。ところが、日本の音楽と言うのは異なった時間の層を重ね合わせます。合奏する三人の演奏家はめいめいが自分のリズムを守るでしょう。一人はゆっくり、もう一人はより速く、三人目は二人の中間くらい。そしてこの間の中にこそ日本人は美を見出すのです」
僕はこれを心の底から賛成する気分にはなれない。むしろ教会のオルガンに当てはまるではないか。老人はゆっくり、オルガン奏者の指はより速く、残響はとてつもなく遅く、子供はマキャベリスト。めいめいが自分のテンポを守っている。たまたま足を運んでしまった若者はさぞかし「正しくない」と腹を立てることだろう。まあこんな極端な例でなくとも、室内楽をやった経験のある人なら、あるパートは基本のリズムから少し離れてリベラルな関係になることが、逆に音楽的に揃って聞こえる要素になることがあるなどと言うようなことを経験として知っているはずだ。単純に縦キッチリ合わせればそう聞こえるってわけじゃない。
テンポってのは、西洋音楽においても、なんとなくそれとなく流れている、曖昧で抽象的で漠然とした概念だ。西洋人自身がそれに気付いてないだけだ。確かに一つ背骨のあるテンポ感が要求されることは間違い無いことだけれども、よりインテンポに聞こえるずらし方があるし、よりインテンポに聞こえるルバートもある。敢えて縦を揃えないことによって和音がより和音として揃って聞こえることもある。基本的に和音ってのは少しずれていたほうが、それがどんな和音なのかを把握しやすい。これは理論的な根拠を問う問題ではなくて、経験的に体験していくことだ。「間」が必要なのは西洋音楽だって一緒でしょうに。こんな武満の言葉にいちいち感動してちゃダメですよ。
もちろん日本の音楽が一つ背骨の通ったテンポ感でなされる音楽でないことは分かりきっていることだけれども、かといって当の日本人自身が「間」にこだわっているのかというと、さてどうだろう。と思う。本当に日本人は、日本の伝統音楽を聴いて、時間の層が重なり合っていることに注目して、それこそ美しいと思っているのかどうか。たとえば文楽とか歌舞伎とかをナマで見に行って感動する理由はソレですかね?「曾根崎心中」で感動するポイントは「間」ですかね?いやいや、舞台に関わっている全ての人が全体としてかもし出す雰囲気にこそ感動しないだろうか。同じ旋律線を複数が歌うことによって強調される効果ってものがあるだろう。果たしてそれを本当に日本人は「間」と捉えているのか。僕には疑問だ。
もっと極端なことを言えば、武満の言葉はそっくり逆にしても通用する可能性がある。古典的オーケストラが全員一致を目指すわけが無いだろう。それは空間的な配置と音色のヴァリエーションが増えることによって獲得できる表現の多彩さの喜びであって、広がりや多層であることを目指す音楽だ。室内楽が一人で弾いているように聞こえたら本当に面白いだろうか。奏者間の対位法的な掛け合いやテンポの操作こそ室内楽の魅力だろう。バロックの音楽は一人の音楽家に5人分の仕事を強いることだってある。たった一人でいても「全員一致」があり得ないのが西洋の音楽ではないか。日本の音楽のほうがもっと強烈に全体が一つの雰囲気にこだわっているフシがある。
西洋は動で東洋は静と相場が決まっているが、僕はこんなこと信じられない。ひんやりした空気の教会の賛美歌と、湿気の中の阿波踊りを見比べて、それでもその言葉を繰り返すことができるかどうか。要するに西洋にも動静があるし、東洋にも動静があるし、所詮人間の道楽、楽しむツボがそうそうかわるわけない。
西洋と東洋、あるいはその他の音楽の差はただ単に方法論の違いだけであって、僕は文化圏は違えど同じ人間の耳を楽しませている音楽で起きている現象が、土地柄によって根本的に違うものになるとは思えないのだ。じゃあ反復を基本とするアフリカとかの音楽はどうなんだと。そういうものには決まって踊りと言う視覚的な効果が加わってくるでしょうに。そしてそれはリズムの反復するバロック舞踊とまさしく同様だし、東洋の舞踊だって同じでしょうに。根本的には何も違いません。
東洋=静=禅=瞑想的なんて固定概念が一番よろしくない。竜安寺=禅=テツガクな気分で見なきゃ。なんて言ったら、面白い要素をみすみす見逃す結果になってしまう。自国の文化というのは得てして逆にエッセンスに気付きにくい。自国の文化に触れるときこそ、できるだけ固定概念やら頭の中の垢を払い落として、そのものズバリとして見ることをお勧めする次第なり。しかも今でも日本の美意識と称してオーケストラを分割して別々の時間帯を設ける作者は、固定概念とオールドファッションの信者と捉へ一笑に付すべし付すべし。