Kenichi Nishizawa.net
Kenichi Nishizawa ; Composer,Pianist
Mika Nishizawa ; Pianist
and , Piano Duo by Kenichi & Mika Nishizawa "Duo Frösche"

エッセイ・雑文 / 自選「創作日記」07/2002〜

2002年7月より2004年3月まで間に書いた旧『創作日記』の中から、 幾許か読む価値もあるのかも知れないと思われるいくつかの雑文を選び、 物によっては文章に手を加え、自分の無恥を顧みず再掲載することにいたします。 新しい長文などを執筆した際もこのページに掲載しています。

グールド (2002/08/14)

200年ばかし経った古典の作曲家の作品というのも、200年経った分だけ大人びていることになる。当時の表情と今から見る表情とでは全く違うって、考えてみれば当たり前のことだけど。例えばベートーヴェンの「情熱」のような首フリフリのハードコアな世界が、戦国武士の茶の湯が、お嬢様の素養になったりする。時間の経過ってのは恐ろしい。

演奏家って職業は作品の骨髄を見極める職業だとつくづく思う。作曲された当時の衝撃まで再現できたらさぞかし天才的な演奏家だろう。それが無理だとしても、時間で風化されずに残る、その作品の一番オイシイ部分ってのがある。それをどうオイシそうに見せるかが演奏家の能力の差ではないんじゃないかな。

古典派の作品には明らかに作為がある。というのも、全4楽章がソナタ形式で書かれていることに笑い出して、それを冗談だと受け取るようなレベルの聴衆を前提に書かれていることに由来する。そいつらをビックリさせなきゃならんのだから、当然、前提とされている形式や習慣に則りながら、しかしいかにそれから逸脱するかというのが問題になってくる。ハイドン先生はすげえのだ。

こういう作品を演奏するとき、僕は雰囲気で流れるように弾いてはダメだと思ってる。ビックリさせるように弾かないと。そのように作ってあるのだし。山の天気のように、さっきまで晴れてたと思ったのに急に激しい雷雨に驚く、ってのじゃないと。そしてこの驚きこそ自然そのものであって、予定調和的であってはならないのだ。それを聴衆に見せなきゃならない。

本当に面白い音楽に出会うとき、そこにはかならず驚きがある。「なんて美しいんだろう…」とかそんな恍惚とした驚きではなくて、「何じゃこりゃ!」って性質のワケのわからない、でも何かに突き動かされる驚きだ。それでいて全体的なフォルムの整いもある。バルトークが民謡収集に没頭した理由もわかるってもんだ。

ここで一つ、極端な話を打ってみる。

演奏家というのは作品の骨髄を見極める職業だと書いたけど、たとえば昨今の古楽ブームてのがある。んまあ先駆者は70年代にすでにやっていて、その彼も今はもう止めているんだけど、ようやく世間が70年の先駆者に追いついた。それは良いとして、とりあえず研究という側面で古楽ブームがもたらした功績は大きい。

まず作曲家自身がどのような音を聴いていたのかを知るって側面があるし、作曲家自身が書いた楽譜に(例えば自筆のファクシミリに)忠実であろうとする姿勢がもたらしたものは大きい。数日前の日記にも書いたように、例えばバッハを自筆譜で勉強するってのは、すさまじい効果を発揮する。

しかし昔はヨーロッパの学校の試験でバッハを弾こうものなら、極端な話、100点と0点に白黒パッキリ分かれてしまったのだ。古楽ブーム賛成派と反対派が激しいバトルを繰り替えしていたわけだ。そのバトルで得た収益はやはり大きかった。しかしお釣りも来た。例えばベルリンフィルがバロック弓でモーツァルトを弾いたりするようなお釣りも出来てしまった。

今の日本の演奏会では、バロック・古典を弾くときは猫も杓子もバロック弓という、あるいは猫も杓子もバロック式の弓使いということになっている。もちろんそれで演奏が面白ければ別に文句は言わないのだけれども、問題は別のところにある。要するに、それが正しいか正しくないかという議論になることだ。

ひどい時になるとベルリオーズまで古楽器で録音してしまう輩がいるが、どう考えてもそれは違えだろうと思うんだけど、まあ、資料としては良いということにしておこうか。しかしこれが作品の正しい解釈だと主張されると、正直僕はゲンナリしてしまう。古楽器バンザイの人に言っておきたいけれども、なぜ人は楽器を改良してきたのか、その意味をちゃんと分かっておいて欲しい。

車みたいなもんだ。クラシックカーというのは、デザインも凝っていて面白い。道を走っても色んな人に振り返られるので注目度も抜群。だから現代の車は紋切型でイヤだと言いたい気持ちもわからなくは無いけども、でも純粋に現在公道を走るうえでどちらが便利でどちらが性能が上かは火を見るより明らかだろうと思う。

だから普通は、いくらクラシックカーを持っていたところで、それは自慢するときとか愛好家でドライブのために、あるいは単に保存しておくために使うわけだけれども、普段走るのにはトヨタとか、そういうことになるでしょう。なのに、夜中にレンタルビデオショップに行くのにクラシックカーを使ってしまうようなことが芸術では真面目にやられてしまうのだ。

現代の楽器、現代の演奏法のほうが、はるかに便利であって、便利にするために改良が加えられているわけで、力加減で古楽器の音だって出せる。バロック弓を使わなくたってバロック弓っぽい音はいくらでも出せる。ところが最近の風潮を見ていると、古楽演奏の先駆者が提唱した本来の研究や実験と言う側面が外れて、正しさという根拠を求めたいがためのものになっているように思うのだ。

しかしそれは作品の骨髄でもなければ、作品の骨髄を表現することにもなり得ない。例えばバッハの作品の持つ骨髄はあくまでも対位法の興奮だ。古楽器をそろえて譜面台には自筆譜、おまけにカツラでもつけて演奏しても、それが対位法もクソもない演奏だったらオシマイなのだ。

さてここで、目下タイトルであるところのグールド先生を召還してみようか。

あまりにも独特過ぎるピアニズムやら、録音について回るフンフーンという濁声の鼻歌やら、これまた賛否両論に事欠かない問題児の一人だ。彼が生まれたのは1932年。丁度、典型的な『前衛・実験音楽』世代であるブーレーズやシュトックハウゼンの直後に生まれている。すべての芸術を、19世紀のロマンティシズムの反動から、既存の概念の破壊という方向に向かわせた世代だ。恐らく彼の演奏スタイルは彼の世代だからこそ受け入れられたものだろう。画家や作曲家に一般的に見られていた実験のようには、演奏家では職業柄なかなかそういったものが出来なかった。そこでグールドの、『バッハの破壊』というものに焦点が当てられることになる。

しかし、もしも彼の『バッハ破壊』という実験が一過性のものであったら、ここまで長きに渡り聴き続けられるものだろうか。本当に彼はバッハを破壊していたのか。もちろん彼はわがままを押し通していたことには違いないが、あまり彼の演奏からは、思想的な意図であるとか、実験の必然性への理屈付けであるとか、そのような、ありがちなものは聞こえてこないように思う。本人の意思は他にあって、『バッハを破壊』しているように聞こえてしまう彼の演奏が、実験的なアプローチとして時代が解釈してしまっただけなのではないだろうか。

単に奇抜なかんじのする音、という域を越えると、彼の神経質さと音楽観が見えてくる。彼は作曲家でありたかったのだが、それは重要なことだろう。グールドが18歳のころは、当時最先端の作曲技法であったセリーの信望者として、少なくない作品を残している。しかしコンサート会場から姿を消したころ書いた、唯一『作品1』という作品番号を持つ弦楽四重奏曲は、まるでリヒャルト・シュトラウスばりのロマンティックな作品を書いている。余程自信作だったのか、作曲家や音楽大学など、あらゆる場所に楽譜を送りつけるのだが、時代が早すぎたのか遅すぎたのか、結局は酷評されてしまう。

なにはともあれ、出版も録音も果たした弦楽四重奏だが、『なぜ自分は冷徹な十二音主義の信望者をやめて変節したのか』ってことを弁明する為に色々言い訳を試みるのだけれども、それが本当に言い訳になってしまって、最後は感傷に走ってしまう。『問題は作品2だ』と言い残すが、その後は戯れの作品や完全に商業的な仕事の作品しか書かず、結局『作品2』は、登場しないままに終わってしまう。作曲家を挫折した男なのだ。

弦楽四重奏は完全に真面目過ぎるほどの作品であったが、そのあとは、彼は自分の立場をはぐらかすようなパロディしか書けなかった。そのパロディの作品も、真面目な人間がくりだす自虐的でつらいパロディで、見ていて痛々しいほどだ。ともすれば退屈なほどに真面目な人間だっただろう。しかし彼のそういう態度は演奏のほうにはある意味良くあらわれていたような気もする。

さて彼を絶賛する人は、おそらく彼特有の『奇抜さ』に惹かれているのだろう。ちょっと他の場所では聴けないバッハ。演奏家は作曲家の呪縛から離れて何をしても良いのだと思っている人達から尊敬されている。安直に言えば、楽譜に書いてないことをニ、三付け加えると新しい解釈になっていると思っている人たち。そしてグールドをクソミソに貶す人は、その、原典どおりでない、なにか余計なものをくっ付ける基本どおりでない姿が気に食わないのだろう。正しくないと言いたいのだ。

そして今や彼の聴衆は、このどちらかの両極端な立場しか存在していない。しかし彼が弾くバッハが、実は作曲家になることを挫折しなければならなかった男の、俺もこんな作品を作ってみたかったという心情の吐露であったと仮定するならば、どうだろう。あの彼の作品の生真面目さを見ると、僕はハタから見えるような意図は彼には無かったのではないかと思える。誤解されたままなのだ。

もう一度グールドをしっかり聴いてみよう。そしてバッハの音楽の持つ一番オイシイところとは何かを考えてみよう。バッハの醍醐味は対位法の興奮だ。そして世間はあまりにもバロックを安楽椅子に座って聴く何か別のものと、あるいはスタイリッシュに演奏する形骸的な何か別のものと勘違いしている。生々しく肉感的。明暗はっきり。強い劇的要素。つまり現在ある音楽のルールが当時無かっただけであって、あるいは音楽のルールに対する考え方が変わっただけで、ともすると現在の音楽より自己表現の欲望とかそういうようなものが強い音楽なのに、現在のルールが適用できない堅苦しい音楽だとか、形式の作り方だけに集中してしまって、そういう人に限って単にテーマがやたらに意味なくむなしく目立つフーガを弾いたりする。フーガが物語であることを忘れてはならないのだ。音楽以外の芸術も、すべて聖書の物語りや、光や闇の演出に尽くしていたではないか。あまりにも形式破りな表現方法から『バロック=ゆがんだ真珠』という名前までつけられたではないか。

聞いた話によると、とある有名なピアニストが学生のバロックを聴いて「あなたね、いくらきれいな音を出してもね、テンポは少しもかわったらいけないの。中学生でもできるのよ」などと言ったそうだが、僕はこの人が中学生並の知能を持っているかどうか断言しかねる。まあ、それが良しとされていた時代もあった。しかしこのピアニストは数十年前の音楽観で未だにメシを食っているのだ。…いや、音楽でメシを食っているかどうかも断言しかねるけども。。

さあ、もう一回見なおしてみよう。グールドの演奏から見出せるものは何か。生々しく肉感的。明暗はっきり。強い劇的要素。自己表現の欲望。そして対位法を充分に強調する腕。特徴的な非和声音を存分に聴き取る耳。埋もれない内声。つまり、まさにグールドの演奏はバッハの最もオイシイところ、全く基本の部分を的確に押さえているのだ。当時の楽器を使って いても対位法を強調できない演奏をされるより、はるかにバッハの精神に忠実なのだ。もちろん、バッハの時代様式にグールドの演奏が合っているなどというツモリは毛頭無いけれども、作曲された当時の衝撃を再現する方法はいくらでもあって、今の時代だからこそ見えるものもある。グールドはその時代精神に忠実であっただけだ。 

はっきり言って『正しさ』というのは魅力だ。宗教的な魔力を持っている。新興宗教にはまる人は、間違っていることが怖い人だ。人は正しさを求め、正しくありたいがために暴走し、時には自分の信じる正しさを守るために戦争を仕掛けてみたりする。ヒトラーの『わが闘争』を読むと、これが論理的な首尾一貫や『正しさ』に満ちていることを発見する。 そして、そんなものがいかに不毛なことかも分かってくる。正しさというものは、すべてを単純化する天才なのだ。

音楽が『正しさ』の呪縛にさらされないことを、僕は心の底から祈っている。理論的に正しいことは別に結構だが、正しければそれで良いのか。正しいことが第一なのか。あるいは、姿は違うけれども奇抜さというのも一種の『正しさ』への信仰だ。何か一つ道徳的な固定概念を持っていて、そこから逸脱する姿が『奇抜』ということになるけれども、逸脱すればそれで良いのか。逸脱だけが第一なのか。古楽ブームに乗っかっている人にも、グールド賛成反対両論者にも、今一度考えて欲しいことだと思う。