エッセイ・雑文 / 自選「創作日記」07/2002〜
2002年7月より2004年3月まで間に書いた旧『創作日記』の中から、
幾許か読む価値もあるのかも知れないと思われるいくつかの雑文を選び、
物によっては文章に手を加え、自分の無恥を顧みず再掲載することにいたします。
新しい長文などを執筆した際もこのページに掲載しています。
評論家 (2002/08/21)
音楽がらみで、音楽評論家ほど貧乏くじを引いている職種は無いかもしれない。
どの時代だってそうだ。音楽評論家というか、評論家一般で、そうだ。一度批評記事を書くと、聴衆からも作者からも叩かれる。挙句の果てに、「批評家の言うことを聞いてはいけない。これまでに批評家の銅像が建てられたためしは無い」とかシベリウスに言われたり、「なんだよおまえ楽器も作曲もできないくせに、偉そうなこと言うんじゃねえよ」なんて喧嘩腰に作者に罵られたりする。
これって、いかがなものだろう。
これって、片手の無い人が片足の無い人に向かって、「おまえ悔しかったら両足で歩いてみろよ」って言っているのと同じじゃないだろか。あ、いやいや、僕は差別的な意味でこう言ったんじゃないので誤解の無いように。つまりですよ、全てが足りている人間なんていないわけじゃないですか。目が不自由に生まれて聴覚がやたら発達した人だっているし、どこかに能力を注ぎ込めば、別の部分の能力は退化するものですよ。僕だって両手に神経を集中させている間に片方足が無くなっていると思う。
すべての人に音楽の才能があるわけではないし、楽器の才能があるから作曲の才能もあるなんて図式は成り立たないし、逆だってそうだ。すべての聴衆が音楽を理解できるわけではないし、そんなこと有り得ない。演奏家だって恐らく曲の全てを理解しているわけではないし、作曲者本人だって作品を理解できていないことがある。でも、それと音楽は全く関係ないのだ。音楽の才能が無いことって果たして悪いことだろうか。音楽をやっている人が、楽器や作曲の才能が無い人のことを叩く権利なんてどこにあるんだろうか。今、君が箸でつまんでいるキャベツは誰が育てたと思っておる。
なぜか必ず作者は悲劇のヒーローか正義の味方で、評論家は悪役ということになるが、どうも僕はココに作者側の曲がった根性が見えてしまう。おまえらの正義っていかほどのものやねん。おまえらが思っている正しさってどれほどのものやねん。ただ単に新作の文句を書くから評論家が嫌いなだけなんじゃないだろうか?ケツの穴が小さいのぉ。およそ作者というものは、つむじが曲がっているべきであって、根性は真っ直ぐでなきゃならんのぢゃないかね。
評論家という職業はどういう役割があるのかをしっかり考えて欲しいものだ。つまり、それは聴衆の代表だ。いろいろと音楽に詳しい一人の聴衆が、その感想を発表するのだ。評論家が書いた批評自体に意味があるのかどうかではなくて、それによって聴衆全般に議論を吹っかけることができるかどうかが問題なのだ。たった一人では文化もクソもないだろう。聴衆がその音楽をどう思ったかということこそ、重要な音楽の現場の一部だ。そんな聴衆側の反応を伝える人間がいたっていいじゃないか。それを自分の名前で発表する以上、評論家だって充分にリスキーな職業なのだ。
批評が主観でナニが悪い。評論家が古い時代の耳を持っていてナニが悪い。山根銀二が武満の「二つのレント」を「音楽以前である」って言ったのは、そこまで悪いことなのか。勿論、武満も戦っているかもしれないが、山根銀二だって自分の名前を賭けて戦っているのだ。文化を盛り上げていこうと思ったら、鑑賞側として発言する役割だって必要だ。評論家なんていないほうが良いってことを突き詰めたら、鑑賞する人間なんていないほうが良いってことと同じになる。作曲者や演奏家の皆さん、本当にそれに耐えられますか?ひとつ演奏会を終えて、自分の身内から「良かったよー」なんて声をかけられて、その他の場所に全く反応が出ないことに耐えられますか?
だいたい、音楽を聴くという行為に、客観なんてあるわけないでしょ?全部主観でしょ?じゃあ、すべての聴衆に自分の作品や演奏を「客観的に」判断してもらいたいんですか?なんだそれ。すっげーいいわけチックじゃん。作品と言うのは、まず見て、聴いて、すぐさま理解できるものであるべきであって、勿論、音楽の理解には前提が必要である。少なくとも「音が聞こえること」という前提が必要である。芸術にはターゲットが必要なのである。どのような人々に理解してもらいたいか、という自分のビジョンがなければ絶対に芸術は成り立たない。しかし、そのことと、作品を理解しやすく構成することとの間には何の関係も無いはずである。自分が必須で撃ち落さなければならないターゲットに向かって「客観的に聞け」だなどと要求するのは、これは恥以外の何物でもないではないか。
だから、自信を持って言いましょう。是非とも主観的に聴いてください、と。お気に召さないかもしれませんが、そのときはそのときでどうぞよろしく、と。でも入場料は返しませんよ、と。評論家は政治勢力の提灯持ちだとか言ってる御方もありますが、世の中、そんなに善悪の境界が単純なものではございませんよ。ていうか、その場合、何故に提灯持ちをさせている政治勢力そのものである某音楽家をコキ下ろそうとしないんだろうか。よくわからん。ただ是非とも僕は、評論家に着せられた意味不明な悪名を晴らしてあげたいと望んでおります。
どの時代だってそうだ。音楽評論家というか、評論家一般で、そうだ。一度批評記事を書くと、聴衆からも作者からも叩かれる。挙句の果てに、「批評家の言うことを聞いてはいけない。これまでに批評家の銅像が建てられたためしは無い」とかシベリウスに言われたり、「なんだよおまえ楽器も作曲もできないくせに、偉そうなこと言うんじゃねえよ」なんて喧嘩腰に作者に罵られたりする。
これって、いかがなものだろう。
これって、片手の無い人が片足の無い人に向かって、「おまえ悔しかったら両足で歩いてみろよ」って言っているのと同じじゃないだろか。あ、いやいや、僕は差別的な意味でこう言ったんじゃないので誤解の無いように。つまりですよ、全てが足りている人間なんていないわけじゃないですか。目が不自由に生まれて聴覚がやたら発達した人だっているし、どこかに能力を注ぎ込めば、別の部分の能力は退化するものですよ。僕だって両手に神経を集中させている間に片方足が無くなっていると思う。
すべての人に音楽の才能があるわけではないし、楽器の才能があるから作曲の才能もあるなんて図式は成り立たないし、逆だってそうだ。すべての聴衆が音楽を理解できるわけではないし、そんなこと有り得ない。演奏家だって恐らく曲の全てを理解しているわけではないし、作曲者本人だって作品を理解できていないことがある。でも、それと音楽は全く関係ないのだ。音楽の才能が無いことって果たして悪いことだろうか。音楽をやっている人が、楽器や作曲の才能が無い人のことを叩く権利なんてどこにあるんだろうか。今、君が箸でつまんでいるキャベツは誰が育てたと思っておる。
なぜか必ず作者は悲劇のヒーローか正義の味方で、評論家は悪役ということになるが、どうも僕はココに作者側の曲がった根性が見えてしまう。おまえらの正義っていかほどのものやねん。おまえらが思っている正しさってどれほどのものやねん。ただ単に新作の文句を書くから評論家が嫌いなだけなんじゃないだろうか?ケツの穴が小さいのぉ。およそ作者というものは、つむじが曲がっているべきであって、根性は真っ直ぐでなきゃならんのぢゃないかね。
評論家という職業はどういう役割があるのかをしっかり考えて欲しいものだ。つまり、それは聴衆の代表だ。いろいろと音楽に詳しい一人の聴衆が、その感想を発表するのだ。評論家が書いた批評自体に意味があるのかどうかではなくて、それによって聴衆全般に議論を吹っかけることができるかどうかが問題なのだ。たった一人では文化もクソもないだろう。聴衆がその音楽をどう思ったかということこそ、重要な音楽の現場の一部だ。そんな聴衆側の反応を伝える人間がいたっていいじゃないか。それを自分の名前で発表する以上、評論家だって充分にリスキーな職業なのだ。
批評が主観でナニが悪い。評論家が古い時代の耳を持っていてナニが悪い。山根銀二が武満の「二つのレント」を「音楽以前である」って言ったのは、そこまで悪いことなのか。勿論、武満も戦っているかもしれないが、山根銀二だって自分の名前を賭けて戦っているのだ。文化を盛り上げていこうと思ったら、鑑賞側として発言する役割だって必要だ。評論家なんていないほうが良いってことを突き詰めたら、鑑賞する人間なんていないほうが良いってことと同じになる。作曲者や演奏家の皆さん、本当にそれに耐えられますか?ひとつ演奏会を終えて、自分の身内から「良かったよー」なんて声をかけられて、その他の場所に全く反応が出ないことに耐えられますか?
だいたい、音楽を聴くという行為に、客観なんてあるわけないでしょ?全部主観でしょ?じゃあ、すべての聴衆に自分の作品や演奏を「客観的に」判断してもらいたいんですか?なんだそれ。すっげーいいわけチックじゃん。作品と言うのは、まず見て、聴いて、すぐさま理解できるものであるべきであって、勿論、音楽の理解には前提が必要である。少なくとも「音が聞こえること」という前提が必要である。芸術にはターゲットが必要なのである。どのような人々に理解してもらいたいか、という自分のビジョンがなければ絶対に芸術は成り立たない。しかし、そのことと、作品を理解しやすく構成することとの間には何の関係も無いはずである。自分が必須で撃ち落さなければならないターゲットに向かって「客観的に聞け」だなどと要求するのは、これは恥以外の何物でもないではないか。
だから、自信を持って言いましょう。是非とも主観的に聴いてください、と。お気に召さないかもしれませんが、そのときはそのときでどうぞよろしく、と。でも入場料は返しませんよ、と。評論家は政治勢力の提灯持ちだとか言ってる御方もありますが、世の中、そんなに善悪の境界が単純なものではございませんよ。ていうか、その場合、何故に提灯持ちをさせている政治勢力そのものである某音楽家をコキ下ろそうとしないんだろうか。よくわからん。ただ是非とも僕は、評論家に着せられた意味不明な悪名を晴らしてあげたいと望んでおります。