エッセイ・雑文 / 自選「創作日記」07/2002〜
2002年7月より2004年3月まで間に書いた旧『創作日記』の中から、
幾許か読む価値もあるのかも知れないと思われるいくつかの雑文を選び、
物によっては文章に手を加え、自分の無恥を顧みず再掲載することにいたします。
新しい長文などを執筆した際もこのページに掲載しています。
猿真似? (2002/08/22)
ダニエル・カールが山形弁を喋ることを、まさか批難するやつなんていないだろう。テレビに出てきて以来、彼は山形弁を喋る「変なガイジン」とレッテルを貼られているが、僕の記憶している限りでは山形弁を喋ること自体に批難が集中したことは無いと思うし、その延長線上で彼が山形の伝統芸能をたしなんでいる姿が批難に晒されたことも無い。彼のことを「日本人のサルマネをするバカヤロウ」なんて、誰一人そんなこと言わないだろう。言うとしたらよっぽどの変人か意地悪なヤツだ。
ダニエル・カール自身、生まれたときには、まさか後に自分が山形弁を喋ることになるだろうとは思っていなかっただろう。フランスに留学しているあなた。ドイツに留学しているあなた。カブトムシとかスーパーマリオとか全員集合!に興じていた小学生のときに、まさか後々自分がドイツでドイツ語喋るようになることを想像できましたか?日本人である自分がフランス語を喋っていることをフランス人に批難されたりしましたか?「フランス語なんか喋りやがってフランス人のサルマネするなパリかぶれ野郎」なんて言うフランス人がいたら是非ともお目にかかってみたい。では、ときに海外で留学就職中のあなた。なぜに今、自分はドイツとかフランスとか、要するに日本じゃない土地にいるのですか?
そりゃ、「成り行きです」としか言えないだろう。ダニエル・カールだって自分が山形弁を喋ることになったのは、成り行きですとしか言えないだろうって。現在の日本では「留学」は特権じゃない。海外で起業することも特権じゃない。経営の場合なら戦略ということになるし、勉学については手段ということになる。まさか今の日本で「洋行帰り」をネタに売ろうとしているやつなんていないだろうって。成り行きに良いも悪いもないだろう。だって気がついたらそこにいるんだもの。
では、いわゆる西洋音楽をやっているあなた。なぜあなたは西洋発祥の楽器で、西洋で考案された楽譜を用いて、いわゆる西洋音楽をやっているのですか?これだって僕は「成り行きです」としか言えない。ウチの実家が筝や三味のお師匠さんだったとしたら、現在の僕も違った姿になっていたかもしれない。でも、今はそんな家のほうが圧倒的に少ないわけだし、それが良いことか悪いことかはまったくの別問題であって、現実として家にピアノが置いてあるほうが現実的なのだ。善悪の問題ではない。まあ、ウチにはピアノは無かったけれども。
いまさらのように、ヨーロッパからの流れの音楽をやっていることに関して「サルマネ」というのはいかがなものだろうか。だったら平安時代の日本人にも平安京を作ったことに関して同じように「長安のサルマネするな」と突っ込んで欲しいものだ。ところが、こういうことは迂闊に通りすぎて、京都イコール日本の美意識、と安心していたりする。道が碁盤の目になってるねー、なんて感心してみたりする。日本語ほど外来語にあふれている言語なんてないし、とにかく日本は昔から外国文化を享受して、それをいかに自分流にアレンジするかの術に長けていた。あるいは、便利なものならそのまま使っちまえと、国粋という概念なんてどこかに吹き飛んでいる風通しの良い国だった。はず。
そしてそれが間違い無く日本の良いところのはずなのだが、そういう性質のことをいちいち「サルマネ」と罵ってしまっては、日本オリジナルの文化だって発生していないはずだ。漢字が無かったら仮名文字だって出来てないでしょうに。そういうことを都合良く忘れて、日本人ってサルマネ好きだからやーねー。なんて、当の日本人が言っているからイヤになる。ご先祖様に無礼です。
そもそも、完全にオリジナルだけを頼りに生きている国なんて無いし、だからということで現在の日本で着物にキセルに、移動には籠、なんてやったら、そいつは変態だ。いわゆる先進国において、やっぱ人間基本どおりに生きなきゃならんとか言って裸にイノシシ追って生活などしたらどうだろう。現在、世界はこういう類の生活を選んだし、それは善悪の問題ではない。ヨーロッパだって産業革命で自分達の文化をむざむざと捨ててきた。ありとあらゆる他の国の文化にも目を向けてきた。それはトルコの軍楽太鼓であったり、日本の浮世絵であったり。ヨーロッパの流れの音楽が国際的な芸術音楽としての地位を保っていられるのは、ただそれだけの理由によるのだ。なぜ日本人はいつまでも博物館の中の蝋人形のようにしてなければならない?なぜ日本人自身が自分達は蝋人形であろうなどと言う?道理が通ってないじゃない。
かといって、博物館本体を爆破して蝋人形を野ざらしにするのはもっと馬鹿げている。音楽が真に世界的な感情になるわけないし、一つの音楽が全世界に暮らす40億近い人間全てにとって共通の感情を呼び起こすようなことなんてありえない。(そんな音楽があったら本当に恐ろしいことだ。)インドの山奥のじいさんがオーケストラを聴いたときは、最初のチューニングが一番面白かったそうだ。これは考えれば全く当然のことだし、こんなことで鬼の首を取ってきたかのように感動したりするのは馬鹿げている。つまり、西洋音楽がヨーロッパ人の民族音楽であることにまったく不都合はないし、逆に言えば音楽は全て民族音楽でなければならないのだ。それは民族楽器を使えとか、民族オリジナルの方法論を使えなんてレベルの話じゃなくて、地球の裏側にいる見ず知らずのサンバ踊っているブラジル人女性を標的に音楽を書けるかといったら、僕は書けない。そういう話だ。
民謡を聴いて、例えば僕がモンゴルとかブルガリアとかユダヤとかアラブとかの民謡を聴いて感動するのは、やはり、自分に近い存在へ対象が向けられていることの切実感が音楽にあるからだ。もちろんユダヤの生活を体験していない僕が本当に理解しているのかどうかは怪しいけれども、怪しくて良いのだ。自分が暮らしている土地が重要であって、自分がその土地で暮らしていることが何よりも切実な現実なのだ。そのことを意識すれば、どんな方法を採ってでも、仕方ないほどに自分自身の音楽になるはずなのだ。そしてそれこそ、他国の人にも説得力をもつ音楽をかける唯一の方法なのだ。
最新のヨーロッパの動向を知るのも結構だが、この種の音楽に関して言えば、彼らには我々には無い…そしてヨーロッパに生まれなければ理解することが絶対に出来ない重荷を背負って生きていることを忘れてはならない。彼らの書く音楽と自分達が書く音楽を同列に扱うのは理にかなってない。当然だが、これは貴賎高下などという話ではない。まったく種類の違う音楽であることを早く認めなければならない。そして、本来ならば、それらヨーロッパの動向に対して拒否反応を起こすことだって有り得るはずだ。が、なぜ今まで「拒否」と言う反応を全く見ることが出来ないのか。
ヨーロッパ人の「現在」を日本人が語ることに、僕は少なからず違和感を覚える。これは断食みたいな苦行をせずに済ませる宗教くらい都合よさげでズルイと思う。下地を一切持たずに、しかもそういう下地が無いことを開き直りもせずに情報にナマで触れてしまうのは、つまりは「正しさ」への信仰に他ならないと思うのだ。本当に新しいものとは新しいとさえ思われていない場所にこそあるし、講習会なぞで知名度も名声も確立した作曲家の御尊顔を拝んで「新しい」も「前衛」もクソもないだろう。しかも、こともあろうに、彼らの立派な成果だけを珍重して有難がり、彼らが現在迷っていることとは何かを知ろうともしない。僕には、むしろこの「迷い」こそ重要なものに思えるのだが、如何に。
ダニエル・カール自身、生まれたときには、まさか後に自分が山形弁を喋ることになるだろうとは思っていなかっただろう。フランスに留学しているあなた。ドイツに留学しているあなた。カブトムシとかスーパーマリオとか全員集合!に興じていた小学生のときに、まさか後々自分がドイツでドイツ語喋るようになることを想像できましたか?日本人である自分がフランス語を喋っていることをフランス人に批難されたりしましたか?「フランス語なんか喋りやがってフランス人のサルマネするなパリかぶれ野郎」なんて言うフランス人がいたら是非ともお目にかかってみたい。では、ときに海外で留学就職中のあなた。なぜに今、自分はドイツとかフランスとか、要するに日本じゃない土地にいるのですか?
そりゃ、「成り行きです」としか言えないだろう。ダニエル・カールだって自分が山形弁を喋ることになったのは、成り行きですとしか言えないだろうって。現在の日本では「留学」は特権じゃない。海外で起業することも特権じゃない。経営の場合なら戦略ということになるし、勉学については手段ということになる。まさか今の日本で「洋行帰り」をネタに売ろうとしているやつなんていないだろうって。成り行きに良いも悪いもないだろう。だって気がついたらそこにいるんだもの。
では、いわゆる西洋音楽をやっているあなた。なぜあなたは西洋発祥の楽器で、西洋で考案された楽譜を用いて、いわゆる西洋音楽をやっているのですか?これだって僕は「成り行きです」としか言えない。ウチの実家が筝や三味のお師匠さんだったとしたら、現在の僕も違った姿になっていたかもしれない。でも、今はそんな家のほうが圧倒的に少ないわけだし、それが良いことか悪いことかはまったくの別問題であって、現実として家にピアノが置いてあるほうが現実的なのだ。善悪の問題ではない。まあ、ウチにはピアノは無かったけれども。
いまさらのように、ヨーロッパからの流れの音楽をやっていることに関して「サルマネ」というのはいかがなものだろうか。だったら平安時代の日本人にも平安京を作ったことに関して同じように「長安のサルマネするな」と突っ込んで欲しいものだ。ところが、こういうことは迂闊に通りすぎて、京都イコール日本の美意識、と安心していたりする。道が碁盤の目になってるねー、なんて感心してみたりする。日本語ほど外来語にあふれている言語なんてないし、とにかく日本は昔から外国文化を享受して、それをいかに自分流にアレンジするかの術に長けていた。あるいは、便利なものならそのまま使っちまえと、国粋という概念なんてどこかに吹き飛んでいる風通しの良い国だった。はず。
そしてそれが間違い無く日本の良いところのはずなのだが、そういう性質のことをいちいち「サルマネ」と罵ってしまっては、日本オリジナルの文化だって発生していないはずだ。漢字が無かったら仮名文字だって出来てないでしょうに。そういうことを都合良く忘れて、日本人ってサルマネ好きだからやーねー。なんて、当の日本人が言っているからイヤになる。ご先祖様に無礼です。
そもそも、完全にオリジナルだけを頼りに生きている国なんて無いし、だからということで現在の日本で着物にキセルに、移動には籠、なんてやったら、そいつは変態だ。いわゆる先進国において、やっぱ人間基本どおりに生きなきゃならんとか言って裸にイノシシ追って生活などしたらどうだろう。現在、世界はこういう類の生活を選んだし、それは善悪の問題ではない。ヨーロッパだって産業革命で自分達の文化をむざむざと捨ててきた。ありとあらゆる他の国の文化にも目を向けてきた。それはトルコの軍楽太鼓であったり、日本の浮世絵であったり。ヨーロッパの流れの音楽が国際的な芸術音楽としての地位を保っていられるのは、ただそれだけの理由によるのだ。なぜ日本人はいつまでも博物館の中の蝋人形のようにしてなければならない?なぜ日本人自身が自分達は蝋人形であろうなどと言う?道理が通ってないじゃない。
かといって、博物館本体を爆破して蝋人形を野ざらしにするのはもっと馬鹿げている。音楽が真に世界的な感情になるわけないし、一つの音楽が全世界に暮らす40億近い人間全てにとって共通の感情を呼び起こすようなことなんてありえない。(そんな音楽があったら本当に恐ろしいことだ。)インドの山奥のじいさんがオーケストラを聴いたときは、最初のチューニングが一番面白かったそうだ。これは考えれば全く当然のことだし、こんなことで鬼の首を取ってきたかのように感動したりするのは馬鹿げている。つまり、西洋音楽がヨーロッパ人の民族音楽であることにまったく不都合はないし、逆に言えば音楽は全て民族音楽でなければならないのだ。それは民族楽器を使えとか、民族オリジナルの方法論を使えなんてレベルの話じゃなくて、地球の裏側にいる見ず知らずのサンバ踊っているブラジル人女性を標的に音楽を書けるかといったら、僕は書けない。そういう話だ。
民謡を聴いて、例えば僕がモンゴルとかブルガリアとかユダヤとかアラブとかの民謡を聴いて感動するのは、やはり、自分に近い存在へ対象が向けられていることの切実感が音楽にあるからだ。もちろんユダヤの生活を体験していない僕が本当に理解しているのかどうかは怪しいけれども、怪しくて良いのだ。自分が暮らしている土地が重要であって、自分がその土地で暮らしていることが何よりも切実な現実なのだ。そのことを意識すれば、どんな方法を採ってでも、仕方ないほどに自分自身の音楽になるはずなのだ。そしてそれこそ、他国の人にも説得力をもつ音楽をかける唯一の方法なのだ。
最新のヨーロッパの動向を知るのも結構だが、この種の音楽に関して言えば、彼らには我々には無い…そしてヨーロッパに生まれなければ理解することが絶対に出来ない重荷を背負って生きていることを忘れてはならない。彼らの書く音楽と自分達が書く音楽を同列に扱うのは理にかなってない。当然だが、これは貴賎高下などという話ではない。まったく種類の違う音楽であることを早く認めなければならない。そして、本来ならば、それらヨーロッパの動向に対して拒否反応を起こすことだって有り得るはずだ。が、なぜ今まで「拒否」と言う反応を全く見ることが出来ないのか。
ヨーロッパ人の「現在」を日本人が語ることに、僕は少なからず違和感を覚える。これは断食みたいな苦行をせずに済ませる宗教くらい都合よさげでズルイと思う。下地を一切持たずに、しかもそういう下地が無いことを開き直りもせずに情報にナマで触れてしまうのは、つまりは「正しさ」への信仰に他ならないと思うのだ。本当に新しいものとは新しいとさえ思われていない場所にこそあるし、講習会なぞで知名度も名声も確立した作曲家の御尊顔を拝んで「新しい」も「前衛」もクソもないだろう。しかも、こともあろうに、彼らの立派な成果だけを珍重して有難がり、彼らが現在迷っていることとは何かを知ろうともしない。僕には、むしろこの「迷い」こそ重要なものに思えるのだが、如何に。