| 2002年11月5日 |
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「作曲家やってるなんて凄いね〜!子供の頃の夢が叶ったんだね〜」なんて近所のおばちゃんに言われたりするけど、実際、どうなのか、僕にはよく分からない。もちろん、こんな風に誉めてくれるおばちゃんに何の罪も無いけどさ。子供の頃の夢ってなんだったろう。子供の頃なんて、その日その日をどんな風に遊ぶかしか興味なかった。当時のウチの裏にあった林の中を探検するか、近所にあった藪がうっそうと茂った川の土手を探検するか、買ってきたばかりのファミコンのソフトを極めてみるか、そんなことばかり考えていた。将来のことなんて、何も考えてなかった。 考えてみれば、それは今だって変わりない。言ってしまえば、僕は興味あることだけやって生きているわけで、それはアラビア語を勉強してみることだったり、思いついた料理を作ってみることだったり、将棋を始めてみたり、当然新しい作品を書いてみることだったり、買ってきたばかりのプレステのソフトを極めてみることだったり、そんなことばっかだ。遊んでばっかりだ。人様に誇れるような夢なんかがあったためしなんてありゃしない。僕は作曲家になることなんて夢見ていたわけじゃない。というか、将来の夢なんて、そもそも無かった。 もちろん作曲家って職業は、やってみると案外楽しいものでして、そういう意味で僕はこの職業が好きだし、今のところ、やめようとも思ってない。まあ、ものすごく興味惹かれる別の何かが突如目の前に現れたら、保証はできないけど。でも、「念願かなって作曲家になれました」なんて風には思えないし、いつの間に作曲で金が稼げるようになったのか分からないし、なのに今でも充分金には困っているし、どれだけ書いても達成感なんて味わえないし、要するに、その日その日をどんな風に過ごすか。それしか考えてない。生活的には、小さいときからなーんの進歩も無い。自分でも自分の芸の無さにびっくりする。そういう問題じゃないか。 一日なんて実に単純に出来ているもので、起きて食って仕事をして食って風呂に入って寝る。まあ、その程度だ。フジ系列の昼1:30分のドラマのような歳の離れた愛人と巻き起こすグチャグチャな人間関係で夜も眠れぬ生活、なんて、まあ、人によってはそういう生活しているかもしれないけど、そもそも僕には恋人も妻も愛人もいやしないわけで、居間では平凡な母親がテレビ見てゲラゲラ笑ってる。人様に誇れそうな夢や目標なんて、我が家にゃ無縁だ。パンツのゴムの跡をポリポリ掻いている自分の生活からは何の理想主義も見出せない。 だから何だっつうんだ。人間いつでも夢見てなきゃいけないのか。24時間休むことなく理想を考えてなきゃならんのか。夢をみないことはそんなに悪いことなのか。理想がないことはそんなに悪いことなのか。夢も理想も無くても歩める立派な人生の方法はいくらでもある。とにかく、どこもかしこも、学校でも家でも、子供に夢を見ることを強要しているフシがある。「ゆとり教育」って何やねん。「個性重視」って何さ。そんなこんなで、サボってても卒業できる学校が出来あがり、羽目を外せば個性に見られると勘違いしている子供が出来あがる。金髪にしたりピアスを開けたり、たかがそれごときの行動を起こせば個性が出来あがると勘違いした子供が生まれることになる。まあ、個性を「作る」なんて発想が、そもそも間違っているのだけど。 僕の近所に住んでる高校の後輩の弟が、まあ普段よく一緒に遊ぶんですけど、去年高3でして、エスカレーターで大学までいける高校に通ってたわけですが、僕は彼に、推薦も取らずに一般で受験をすることを薦めましたね。どうしてかというと、一般受験でいけば、少なくとも、他人と勝負した経験のある人間が出来あがるからですよ。エスカレーターで行ってしまったら、他人と勝負することすら出来ない人間が出来あがってしまう。大学の籍なんて、どうせあってもなくても役に立たないんだから、それならせめて人と競走する経験ぐらいあっていい。で、その彼は去年落ちて浪人してます。浪人してさらに勉強が楽しくなったって言ってるし、そうそう、それで良いのよ。がんばってくれい。 なんで高校生のころ、僕はあんなに音大に入学したがったんだろう、と思うと、何度も言った通り、別に夢だったわけじゃない。そんなもん無かったんだから。でも、なんとなく作曲をやりたいなと思っていた。そうそう、それで、僕の高校の時の担任が、やはり音大卒だったのだ。で、作曲なんておまえにできるわけがねえ。とかなんとか(もっと激しく口汚い言葉で)クソミソに言われて。とにかく僕は、この担任が心の底から嫌いだったものだから、むしろ憎んでいたくらいだから、見返してやりたいと思ったんだな。意地でも入学してテメェの負けを認めさせてやる。そんな感じだった。まあ、それが、担任なんてそのうちどうでもよくなって、勉強の楽しさだけが残ったんですね。人が職業を選ぶ瞬間なんて、そんなもんだと思う。というわけで、僕は、この反面教師の鑑みたいな担任に感謝しなきゃいけない。(したくないけど。) 話が飛んでるけど、つまり、夢なんてあっても、その夢の通りに人生を歩むことなんて、普通は有り得ないし、歩めたとしたら相当運が良い。でも、夢の通りに人生歩めたヤツに限って、けっこう勘違いなヤツが出来あがったりする。自分の運があまりにも良かったことに感謝できないヤツになったりするのだ。そうなったら、彼のその後の人生は、坂を転がり落ちることになる。 理想とはどういうものだろう。例えば野球での理想的な打者、とはどういうものだろう。ちょっと極端な例えをすると、打席に立ったら100%必ずホームランを打てる打者がいるとする。実在するわけがないけど、理想と言ったらこれが理想だ。でもこれは、実在したらきっとかなりつまらない物になるんじゃないだろうか。 なんせ、立てばホームラン。応援しているほうだって、まああいつが立ったからホームランだよ。なんて、すごくアッサリとした考えを持ってしまうじゃないか。ここで一発打てるか打てないか!?という場面に松井が出てくるから面白いんじゃないか。松井だって人の子だから、バットが空を切ることもあり得る。ってのが面白いんじゃないか。お願いだから頼む!って、応援だって熱を入れられる。松井が100%ホームランを打ったら、巨人ファンもアンチ巨人ファンも、メシが美味くもならなければ不味くもならないのだ。 というわけで、10割打者なんていたら、つまらないのだ。第一、本人がつまらないだろう。なんせ、やる気が無くてもバットに球が当たるんだから。やる気なくコツっと当ててもホームラン。そんなんじゃ人間腐るって。一年間で3割強ってのが、結局は見ててもやってても面白いわけで。見てるほうも、やってるほうも、ここ一番は頼むから当たってくれ!と神や仏や、その類似品に祈れる余地があるからこそ面白いわけで。 ところが、何の疑問も無く自分は10割打てると思っている人って、結構いるんだよなー。あるいは、自分はそのうち10割打てる人になる。と思っているとか。 恋人や子供が出来た時のノロケの類ではなく、夢や理想や時には幸福なんてことを、得意げに、さもありなんって雰囲気で、やたら饒舌に語る人ってのは、僕には、労少なくオイシイところだけもらって尚且つ人には高尚に見られたい。という願望を持っている人のように見える。つまり、自分の平凡な生活に辟易して、出来ることならフジ系列の昼1:30分のドラマのような歳の離れた愛人と巻き起こすグチャグチャな人間関係で夜も眠れぬ生活ぐらい平凡ではない生活を送りたいのだ。何かに、例えば血のようなものに飢えながら、くすぶりながら生活してる。僕はできるだけ、こういう人から遠ざかりたいと思う。 こういう人は、たまたま運良く自分が事故にも巻き込まれず五体満足に暮らしていることに感謝できないんだろう。運次第では明日にも死ぬかもしれないのに。そして自分が理想で生きる人間であることを他人に示すために、なにか不穏な物を無理やり探してきて、探しても無かったら自分で作り出して、それで尚且つそれを叩く。理想主義的平和主義者ほど好戦的とは誰もが言うことであり、中東で実際に銃持って戦闘してるやつらのほうが、よほど心に平和を満たしていることだろう。 実際に自分の人生を歩いているやつは、案外、目標も目的も無く生きてる。松井は目の前のボールをひっぱたきたいだろうし、インタビューで「目標は?」と聞かれたら、それなりのことを答えるであろうが、試合ではボールを引っ叩く以外のことなんて考えてないはずだ。じゃなきゃ打てない。それで、しかも、当たるか当たらないかはバットを振ってみないとわからないのだ。次に仕上がる作品がどんな作品になるかは書いてみないと分からない。ホームランを打てれば良いけど、素材によってはフライに討ち取られる事だってあるわけだし。だからこそ楽しいわけで。 何をやってもうまく行かないって人のほうが、かえって人生楽しんだりしているんじゃないだろうか。まあ、あまり子供に夢や理想や目標を持たせないほうが良いですよ。それより箸の持ち方や礼儀作法や手紙の書き方なんかを叩きこんだほうがいいに決まってる。じゃないと、私には夢があるの。とかいいながら金稼ぐために風俗つとめたりする子供が出来あがるから。夢が無くて何が悪い。 |