| 2002年11月7日 |
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僕がコンクール経歴を作るちょっと前の話。とある知り合いを頼り、とある別の音楽大学のレッスンに潜り込んだことがあった。担当教官は日本の作曲界の代表的な中堅(あるいはそれ以上)に属する人で、てか、それ以上の詮索はくれぐれもしないように。僕にだって一応は立場ってもんがあるんだから。で、昔のことなので何を言われたのかは良く覚えてないけども、モグリな僕であるにも関わらず心優しくも時間を割いてくださり、様々な助言を頂戴致しました。ありがとうございます。 学生のレッスンが終わった後、最後にレッスン生総出で彼自身の最も新しい作品を聴いた。それは典型的に最近の彼らしい曲だった。楽譜を見ながら音を聴いてああ、ここのこんなオーケストレーションは効果的だな。とか、どうでもいいけど腹減ったな。とか、いろいろと考えながら、まあ、僕の中では、ごくフツーのレッスン風景で終わるはずだった。 はずだった。というわけで、フツーには終わらなかったわけで。 彼の最新作には、珍しく『繰り返し記号』がくっ付いていたのだ。聴き終わったあと彼は言った。「いやあ、僕もね、やっと、繰り返し記号を書くのに抵抗がなくなってきたんだよね。ちょっと前までは、とてもじゃないけど書けなかったんだよ。でも、書いちゃいけない物なんてないんだよね。」ふむふむ。なるほどねぇ。「それでね、今回やってみる気になったんだ。だって、繰り返し記号を書いたところでソナタ形式を書くわけじゃないんだしさ。」 え? 周りの(ちゃんと籍を持っている)学生達は神妙な顔をしてうなずいている。人によってはクスとか笑ってる。「ソナタ形式を書くわけじゃないんだしさ。」この言葉。コレ。そりゃもう、すげえ気になって仕方ない。どう考えても引っかかる。なんで繰り返し記号は書いても良くて、ソナタ形式を書いちゃダメなんだろうか?そんな当然の疑問に頭を悩ませているのは、どうやら僕だけっぽい。でも、ひ弱で気弱で部外者で中退者である僕は、そんなに偉そうにできる立場でもないので突っ込みたくても突っ込めなかった。今の僕なら、…言っちゃうだろうなあ。 あからさまにゲンダイやってた当時の僕も、この言葉だけはどうしても納得できなかった。書いちゃいけない物なんてない。ただしソナタ形式は除く。今考えても分からない。さっきシャワー浴びながら考えたけど、やっぱり分からない。普通に考えて、この言葉って矛盾してないか?って、思わないのかな。思わないんだろうな。僕は正直、ここの学生じゃなくて良かったと思った。 ここに集った人達が言うソナタ形式って、一体なんなのだろう。提示部が二回繰り返されて、主題は対比させられていて、第二主題は基本的に長調なら属調で短調なら並行調で、展開部は主題の要素を使って5群くらい。再現部があって、再現部の第二主題は主調に移調されていて、コーダがあって、お仕舞い。旧時代的で古典時代にすでに完成されていて、唾棄すべきロマン派の残滓で、今や書く価値などまるでなくて、以下略。ま、どうせ、こんな感じなんでしょう。きっと。などと皮肉を言ってみたりするのだけど、自分の美意識がソナタ形式的な形式感を受けつけないって人はいるかもしれない。なるほど、それには共感を持てる。でもそれは「書きたくない」であって、「書いちゃダメ」とは違うでしょう。それとも僕の知らない間に刑法でも改正されて、ソナタ形式を書くと罰金20万円か懲役1年とか、そんなことになっているんだろうか。と、さらに皮肉を言ってみたりする。 きっとココまで読んできて、読者の中の数人は「こいつは言葉尻だけを捉えて揚げ足を取りたいだけなんじゃないだろうか」と思っているかもしれない。ええ。揚げ足とってますとも。でも、その代わり「じゃなんでソナタ形式を書いちゃダメなんですか?」って質問に、誰一人としてマトモな回答をよこせる人はいないと思う。教官本人も言っている通り、書いちゃいけない物なんてないのだ。この言葉がある以上、明確な答えなんて出せるはずがない。にもかかわらず、ソナタ形式を書いてはならないのが、暗黙の了解になっている。何の疑問も持たずに。 もちろん、ソナタ形式を書かなくてはならない義務なんて当然ないわけだけど、そうではなくて、ソナタ形式の曲(っぽい類似品も含め、それら)を一まとめに「ソナタ形式」として、尚且つ、それを書くのは現在では全く価値がないことだとしておくことによって一安心しているのが問題なのだ。これを固定概念と言わずして何と言おう。ゲンダイオンガクに片足でも突っ込んだ人間は、こうした持たなくても良い固定概念に振りまわされがちなのだ。例えば、ナマでドミソと長三和音を置いてみること。人によってはちょっと冗談みたいでしょう?でも、今から30年から40年前には、曲の中にチョコっとでも協和音程が聞こえただけで堕落した作曲家の烙印を押されていた時代があったのだ。アホっぽいけど本当のことだ。よかった。そんな時代に生まれてなくて。 でも、今じゃ見る影もないけど、僕も99年に書いたチェロソナタ。これがチェロのドソミのピチカートで始まるんですけども、いやはや、これを書くのにえっらい勇気が要りました。冒頭にドソミを置くだけですよ。これが怖かった。人によっては信じられないでしょう?でもそういう世界なんですよ。なんで置いちゃいけないの?うん。理由なんてない。理由なんてないんだけど、なんかやっちゃイケナイような雰囲気がある。雰囲気。コレが結構クセモノなのである。 弦楽器のパートにはsul ponticelloとか四分音を書かなきゃイケナイ雰囲気。管楽器のパートには重音とかキークラップを書かなきゃイケナイ雰囲気。なんで管楽器に重音を書かなきゃイケナイの?と聞かれたら、これだってみんな答えられないはずなのだ。だったら書かなくてもいいじゃん。と突っ込まれたら、コレで終了。…まあ、そんなことを言い始めたら作曲自体できなくなりますけどね。勿論「こりゃ特殊奏法じゃないと意味ないよなぁ〜」と思わせる作品が皆無だとは言ってない。実例を挙げて下さいと言われたら喜んで何曲か挙げましょう。でも、そういうことではない。なぜ「通常以外の音」を出す訓練を演奏家に強いてまで特殊奏法を用いなければならないのかを考え抜いていない実例が、あまりにも多すぎやしないだろうか。 耳(とその精神)を自由にするためにはあらゆる時代のあらゆるスタイルの作品を聴かなきゃならない。これは絶対そうだと思う。寄り好みしてちゃ耳は自由にならないもの。ってことは、戦後を寄り好んでいても、やっぱり耳は自由にならないってことだ。 なぜソナタ形式やロンド形式を書いてはならないのか。特殊な音響だけでソナタ形式やロンド形式を書いても、それをそれと聞き取るだけの耳を持った上で書いてはならないと言っているのか。これには中川俊郎氏の某作品など有名な実例もある。あるいは、まったく特殊な音響なしで特殊な時間構築をすることは可能ではないか。教科書的な機能和声法であっても可能である。もしもフェルドマンが例のような楽譜をそっくり教科書機能和声的連結で書いてきたとしたら、一体あなたはどのような反応を示すだろうか。この二つの問いで自らの聴覚を自戒せねばなるまい。そして自戒した後に「機能和声的な音響のソナタ形式」を非難できる自分は果たして存在できるものだろうか。 「書くべき理由は無い」と主張するのであれば「そして、書いてはならない理由も無い」と補足をしなければ、完璧なフォルムとは言えないものである。色即是空・空即是色である。それがわかってれば、例の教官の言葉にも、素直にはうなずけなくなるはずなんだけどな。 で、ですね、例の担当教官の作品。見ようによっては実に単純な三部形式だったわけで、これが最大のパラドクスだったのでしょうか。 |