効果(1)
効果の本質を見極めることは音楽の本質を見極めることと同義である

2002年11月8日

ドイツに留学中の友達が、通っている学校の作曲の学生のオケ作品を弾くことになったらしいんですが、これが、2群のオケ。で、片方は443でチューニング。もう片方は433でチューニングにするよう指示された作品なんだそうでして。まあこの時点で、なんだかなぁと思うことは思うんだけど、もし僕が、このチューニングで二群に分割したオケ作品を書いてくださいなどとと委嘱を受けたとしたら、そうだなぁ、僕だったら感傷的なほどにメロディックな作品を書くと思う。つまり、そろそろ現役を引退しそうな蓄音機みたいな音楽。

ところがどっこいこの作曲の学生は、そりゃあもう双方入り混じってグチャグチャな線ばっかりの曲を書いたそうな。じゃあチューニング分けしている意味なんてないじゃーん!と思うのだけど、そう思いませんか?チューニングがずれているということを、なんでもっと活かそうと思わないんだろうか。二群のチューニング。そう、例えばこの類の音楽で最も成功しているのは、アイヴズの二台ピアノのための四分音の作品だと僕は思うわけで。四分音ずつ上擦っていくラグタイムとか。これだったら意味がよーくわかる。

シュトックハウゼンの「グルッペン」の話を、僕は良く言うんだけど、3群もオーケストラ使ってて、ここのテンポがどうしてこうしてああして。譜面を見たら、あー、そうなってるのねー。と思うことは思うけど、あまりにもいじりすぎているために「テンポ」という概念そのものが希薄である。テンポは軸があって始めて成り立つものなのだから。じゃあ彼は何をしたかったんだろう。音の聞こえる方向?音の聞こえる方向だけを極めるなら、だったら指揮者三人も必要ないじゃない。テンポ一緒でいいじゃない。全体の雰囲気?雰囲気ごときのために、あんな面倒なことをやらせるなや。

こういう類のアイデアをやるなら、他のテンポとごっちゃになるから5連符とか7連符とか書くな!と思うのだけど、そう思いませんか?だったら、リゲティの室内協奏曲の第三楽章なんて、ある意味反則技だけど、あっちのほうが小人数でも色んなテンポが聞こえるからやりたいことが良くわかる。もっと古い例を探せばニールセンの「アラディン組曲」には4群なんてアイデアがある。この曲には八部音符以上の細かい音符なんてほとんど無い。けれども色んな方向から聞こえてくるし、テンポがバラバラなのが良く分かるし、要するに、うまくできてる。

ヘリコプター四重奏とか、最近のあの人、何考えているのかサッパリわからないけど、とうとうキワモノで生涯終わる決意でもしたのかね。ま、いいや。

作曲をしようというとき、そこには何かしらの意図があるものだと思う。意図というのは、愛とか友情とか、まあそういった物でも別に良いっちゃ良いんだけど、ちょっとここではそういう精神論的な類のものは置いておいて、つまり「グルッペン」なら三群のオーケストラで演奏すること。一番最初の学生さんなら二群の違うチューニングがあること。もっと身近な例で言えば、ピアノ一人であること。ギター一人であること。ヴァイオリンとピアノの二人のデュオであること。とか、そういうこと。

三群のオケなら、まずはそれぞれ違うテンポを。あるいは違う方向を。要するに違うアイデアを分担させること。これしかないでしょう。これが二群のチューニングの違うオケになっても、結局は違うアイデアを分担させることしかない。もっといえば、ヴァイオリンとピアノみたいな古典的にある組み合わせでも、ヴァイオリン独自のアイデアとピアノ独自のアイデアのそれぞれを結局は分担させているに他ならないわけだ。

その分担させている意味を、僕だったら、どうせ書くなら一発で聴いて分かるように誰の目にも明らかなように書きたいと思うのだけど、そう思いませんか?例えばナンカロウ。たった一台のプレイヤーピアノだけど、こりゃ一発でわかる。聴いて一発で分かることと、その後ろで作品についての複雑な時間の間取り図を用意しておくこととの間には全く関係が無い。

効果重視、技術重視、というと、少なくとも我が日本においては、軽蔑される対象にさえなってしまう。技術重視に対しては「心で聴いてくれ」から、効果重視に対しては「耳を訓練しなければシュトックハウゼンが意図したような複雑なテンポを聴き取ることは出来ない」に至るまで、これに対する「言い訳」の種類は沢山ある。

ちょっと今までの話とは逆のスタンスになるけれど、たとえばヴァイオリンのシゲティ。彼の晩年の録音の、音がかすれたり、ちょっとリズムが怪しかったりするのを「だから精神性があるんだ」みたいな言い分。これって、本当にいかがなものかと思うのだけど、そう思いませんか?少なくとも僕にとっては、シゲティが演奏するバッハほどバッハ本人の自筆譜を連想させる演奏は無い。あの人は自筆譜から起こして勉強していると思うし、自分が勉強した成果を自分の弓で再現できるのだ。これは相当技術がないと出来ないことだ。演奏家は自分が思うことを自分で再現できるようになるために修行するというのに。

たとえばヨハン・シュトラウス的な、あるいはオッフェンバック的な効果重視や技術重視。こいつらを天才と言わずして何と言うんだ。どんなアイデアを抱いていたかが良く分かる。誰の目にも明らか。けれどなぜかこういうものが軽いものに扱われてしまう。彼らのような曲なんてなかなか書けるようなものじゃないですよ。あるいはちょっと違うかもしれないけどハリウッドに欠かせないジョン・ウイリアムズ。映画のシーンに欲しい音楽が全部わかってる。分かった上でそれをちゃんと具現化できている。天才ですよ。

ところが人間ってのは、わからないことで安心するフシがある。ああこれは僕にはちょっと分からないから高級なんだろうな。とか。あまりにも当たり前に効果を提示するような音楽を、わかりやすいから単純で低級だと思いたがる。あるいは素通りをする。たとえば一番最初の学生さんの音楽。二群もオケを用意させて、なのに出てきた音楽が現役引退寸前の蓄音機のような音楽だったら、きっと聴いている人たちはこれはさほど大したもんじゃないだろうなどと思ったりするのだ。違うチューニングだというのにグチャグチャに聞こえないのが、かえって「ありがたみ」が無くなると言うか。

グチャグチャっぽい前提を聞かされて、グチャグチャなモノを想像する。そして、そこにまさしくグチャグチャなモノが聞こえてくる。これで、一安心。

以前、多少固定概念について書いたけれど、固定概念というのは結局は誰にでもあるもので、逆に無ければアイデンティティーの喪失という事態にも陥りかねない。心の中に誰でも寄りかかりたくなるモノがあるのだ。でも芸術家ともあろうものが、そんなところで躓いていては仕方あるまい。もっと本質を見極めてみる。たとえば「方向」。ヴァイオリンとピアノがユニゾンで始まる。ヴァイオリンはそのままメロディーを演奏する。ピアノは伴奏に回る。たったこれだけで方向が生じるではないか。モーツァルトのK.304を参照のこと。あるいは「違うテンポ」。バッハのブランデンブルク協奏曲第一番を参照のこと。例を挙げるとキリが無いのでやめるけど、こんな単純なことであっても「方向」や「違うテンポ」が生じるではないか。

つまり、本当はここから先が自分の技術の見せ所であって、基本的な技術を列挙したところで、それは「知ってますよ」と言っているだけなのだ。それを用いた先の時間設計こそが作曲の醍醐味ではなかったか。しかも、よもや自分で自分が設定した「技術」を押し殺すような勿体無いことするなんて、僕にゃちょっと信じられない。僕は単純な素材だけで効果をあげることの難しさを多少ナリとも知ってるツモリである。風通しの良いスコアを書いても、色んな音が鳴っているような印象を与えるのは、想像力やら感性やらを総動員させなきゃならないのだ。そして、単純な素材を使って作曲することと、音楽そのものが単純になってしまうことの間には全く関係が無いのである。

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