効果(2)
冷静な自戒がなくては効果ある音響を書くことは難しい

2002年11月9日

…かといって僕は、作曲やってる人間は今日からすべからく単純な素材で書け!と啓蒙したいわけじゃ無い。そこだけは勘違いしないで頂きたいけど。ただ自分が書いたものにどんな効果があるのか。それをまずは熟知して、その効果を狙って書くようにする。効果を発揮しない素材は余程の理由が無い限り排除する。それだけの話です。例えば弦楽器のパートにsul ponticello(以後面倒なのでスルポン)と書くときには、なぜそこがスルポンでなければならないのかを考える。そしてスルポンを置いた後しばらくはスルポンを置かない。何故か?特別な音色は頻発すると特別じゃなくなるから。まあスルポンぐらい今や「特別な音色」とは言わないと言う説もある。でもスルポンを普通の音色と考えるのは、逆に自分の中でスルポンが何の意味も持たなくなっているという証拠でもある。

あるいは今までとは逆に、特殊な奏法を指定する前に、特殊な奏法を指定しなくてもその音色を出すことは出来ないかを考える。例えばsul tasto(以後スルタスト)。スルタストと書く前にちょっと考える。スルタストなんて即物的な指示を書く前にモルト・ソット・ヴォーチェなんて書いてみる。こうすれば演奏者は勝手にスルタストっぽく、あるいはスルタスト以上にスルタストな音色で演奏してくれることでしょう。ソット・ヴォーチェがニュアンスとは違うというのなら、ロンターノなんて書いてみるのもオツですな。

要するに、スルタストはどういう効果があるのかを考える。スルタストの効果は弓の力加減で普通の位置でも出せる音ですよ。たとえばピアノでも、指を立ててみる。寝かせてみる。垂直に降ろしてみる。はじくようにしてみる。その他諸々やり方によって色んな音が出るわけです。でも実際に「ここでは指を立てる」「ここでは寝かせる」なんて指示を出したら非常にウルサイ(そういう作品もあるそうですが…)。だからリゾルートなんて書いてみる。こう書かれて指を寝かせて歌うように弾く人なんていないでしょう。

演奏家にわかりやすい指示を出すというのはこういうことで、演奏家から効果的な演奏を引き出すというのもこういうことに尽きます。作曲の勉強をしていく上で、まずは「演奏家を信用しない」ということをする。これは大事なことですよ。演奏家がアホなマネをしないようにピンポイントで指示をだしていくわけです。そしてその段階が終わったら、今度は「耳の良い演奏家を全面的に信用する」ということをする。この段階に至ると五線紙上の音符の動きだけで何を言わんとするのかが自分でもハッキリしてくるわけです。

ベルギーの個展で一緒に弾いたヴァイオリニストさん(日本人)が、作曲の学生の作品の演奏を頼まれたとき、ヴァイオリンのパートには、楽器をコツコツ叩けという指示があったそうな。「何だコレ」と彼が訪ねたら、その作曲家曰く「これは牢獄の壁を叩く音だ。」

だったら牢獄の壁を持ってこーい!となるわけですが、ヴァイオリニストは毎日毎日、弦を弓でこすって生活しているわけです。そんなヴァイオリニストを捕まえて牢獄の音を出せって言われても、ヴァイオリニストは一体どうすれば良いんですか。なるほど牢獄を弓でこすってヴァイオリンの音が出るというのなら、そのような疑問も生じる余地がありましょう。だったら自分が牢獄に入って壁を弓でこすってみれば良い。つまりヴァイオリンを叩いても牢獄の音なんか出るわけがない。だってそうでしょう?牢獄から乾いた薄い木材の音なんて出やしませんよ。牢獄の音を出すには牢獄の専門家に任せるべきだ。ヴァイオリンの専門家にはヴァイオリンの音を出させるべきだ。

ちょっとこれは極端な例かもしれないけど、あながち極端な話じゃないわけです。その作曲家は牢獄の音に政治的なメッセージを託したのか心理的な描写をしようとしたのか分からないけれど、そこまで具体性を持たせるなら何も音楽じゃなくても良いではないか。こんな抽象的な芸術に託すことは無いではないか。まったくメシアンの捕虜時代のエピソードじゃあるまいし、ヴァイオリンが牢獄に転がってるわけでもないだろうに。だったらヴァイオリンなんてとっぱらっちゃって、役者をもってきてシアターピースにしたほうがいいじゃん。

今でも演奏家に「なんでも屋」になれとおっしゃる作曲家は多いけれど、たとえばトランペット奏者に吊りシンバルを叩かせるとか。もし音の美しさを追求するなら、これはやっちゃいけない。だって普通トランペット奏者は吊りシンバルの叩き方なんて勉強してこないのだから。もう一人打楽器奏者を連れてきたほうが結果が良いに決まってる。

あるいはトランペット奏者が叩くから良いのだろうか。トランペット奏者が吹いている間にクラリネット奏者が叩く吊りシンバルじゃダメなんだろうか。ハープ奏者では?オンドマルトノ奏者では?これに意味が見出せないとなると、トランペット奏者が叩くことにも意味がないことになる。あるいは視覚的効果?ならばトランペットも吹ける打楽器奏者がトランペットを吹きながら吊りシンバルを叩いちゃダメなんだろうか。言ってしまえば、これらは意味が無いのだ。

演奏家にとって「意味も無いことをやらされる」ほど苦痛なことは無いということを、もっと作曲家は分かったほうが良い。耳の良い演奏家なら「おまえさん、スルポンと書きたいだけ違う?」てなことを、ちゃんと見抜くもんですよ。以前の学生さんの二群オケの話、たぶん両方同じチューニングでやっても音楽的には大差ないんじゃないですかね。これだったら何の新鮮味も無くても職人的に書き慣れて安定した音楽のほうが、演奏家としてはまだそっちのほうがマシなんです。つまらなくても良心的なんです。

みんな勘違いしているけど、トランペット奏者にマレットを持たせて彼が立つ場所に吊りシンバルを置いておけば話は簡単ですよ。楽譜にスルポンと書けば簡単に違う音が聞こえてくるし、片方のオケを433にすればそれだけで変な音が聞こえてくるんです。ここに専門的な難しい作業なんて何一つとして無い。ピアノのパートに一発クラスターを書けば簡単なんですよ。簡単なんだけど、でもクラスターよりクラスターに聞こえる和音ってやっぱりあるわけで、勿論、僕は「やるな」とは言わないけど、せめて、ちょっと自分はここでラクをしてるんだな。ってことを意識して書くべきだと思います。

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