江戸人=キリギリス
日本人は日本人のことを酷く誤解しているのではないだろうか

2002年11月24日

水墨画の世界と言うと、『禅』。

だなんて短絡的で横着で独創性の無い狭い見方は、もうやめにして、実際、水墨画を書く現場ってのは、どういう場所なんだろう。と、空想してみる。なんせ、水墨画は一発勝負。油絵みたいにチマチマと塗りなおしたりなんかしない。塗りなおしたとしたら、とくに薄墨の場合、その継ぎはぎが見えてしまう。みなさんも学校の書道の時間には「二度書き」をしないよう、注意されたでしょう。だから書道も一発勝負。水墨画も一発勝負。ダメならもう一枚仕切りなおし。

つまり、一本の線を、何のためらいも無く、スカッと引かなきゃいけない。スカッと引かなかったら墨がにじんでしまう。これは結構度胸が必要だ。ある程度の画材はあるにしても、白紙の状態で引っ張った一本の線が、ちゃんと画材の材料足りうるかなんて保証はどこにもない。

雪舟の場合、実は、これが良く分かる。時々、画材に対して何にも絡んでない直線があったりするのだ。風景画を書いているのに、風景には「有り得ない」線が、しかも、ど真ん中にグッと濃く引かれていたりする。山の輪郭が、木の幹が、空に向かって伸びて、フッと消えてしまったりする。風景画なのに抽象世界に片足突っ込んでいるのだ。雪舟の絵は、どちらかというとデザインへの願望が強いように思える。要するに、風景なんか関係無く、構図的に、真ん中に濃い線が欲しい。そんな感じ。

こう考えると、水墨画の世界ってのは、ある程度「乱暴」じゃなきゃいけない。油絵を書いているときのように、ベレー帽にパイプ加えてあごヒゲをなでたりするなんてことは出来ないのだ。もう、腕やら足やら袖やらあちこち捲り上げて、ファイト一発、一気呵成に、スカッ、バサッ。さぞかし、刀を振り回すくらいのカタルシスがあるだろうな。ハタから見れば、画伯というより野獣。絵を書いているというより暗黒舞踏をしている感じ。

だから、ってワケじゃないけれども、そういえば、僕も、作曲をしながらほとんど訂正をしない。消しゴムのカスは、あまり散らからないのだ。最初の音をひねり出すまでは結構悩むけども、最初の音が決まってからは、さほど悩まない。そのまま一直線に書き上げてしまう。みんな、僕のことを神経質だとか几帳面だとか思ってるけど、いやいや、全然違いますよ。僕は大雑把で乱暴ですよ。宵越しの金は持たない感じ。気が短くて我慢はできない感じ。歌詞を全部覚えている歌が一つもない感じ。「ひ」と「し」は言い間違える感じ。

杉浦日向子さんの本を読んでいて「江戸っ子チェック」てぇのがあったから、やってみたら、これが全部自分に当てはまりやがるんでぃ。べらぼうめぃ。あまりモノを深く考えてない。いや、ほんと、これ、そうだと自分で思う。「自分のことを」あまり深く考えてないってことですよ。貯蓄?投資?んなもん知ったこっちゃあるめぇ、身ひとつ、その日暮らしで、まぁなんとかなるだろうよ。とか考えている。

童話の「アリとキリギリス」は、誰もが知っているだろうと思うけれど、日本人は自分達のことをアリだと思っているし、アリでいることが美徳とされている。けれども、本当の日本人の姿は(というのが極端なら、少なくとも江戸人=東京人的には)キリギリスじゃないだろうか。童話の中のキリギリスの失敗は、単に冬に儲けられる商売を思いつかなかったのが悪いのであって、そう、キリギリスだったら「マッチ売りの少女」みたいな、見ていて寒々しい悲劇に陥ることなく、あの手この手で売り口上でも歌いながらマッチを完売できるんじゃないだろうか。

最近の日本経済の流れを見ていて、もちろん色々と考えるところはあるのだけれども、それだけじゃなくて、これはひょっとして、ただ単に、日本人が自分達がアリでいることに疲れてきただけなんじゃないだろうか。働くなんて野暮。遊んでくらしたーい。とか、みんながみんな思っているだけなんじゃないだろうか。なんて思ったりもした。

だとしたら、これはチャンスだ。もう、経済大国なんて汚名だか美名だかワケわかんない称号は、どこか別の国にでもあげてしまって、みんなノンビリその日暮らし。夕方には長屋のジイさんと囲碁でも打って、なんて。いいんじゃねぇか?これ以上日本も社会主義国家やることねぇんじゃねぇか?日本といえば経済よりも宮崎アニメになってきている。むしろそっちのほうがいいよ。となると、最近のフリーター願望というのは、実は昔の日本の姿に戻ってきているのではないか。実は歓迎すべきことではないかと思われる。それじゃ社会がうまく回らないってんなら、社会のほうを変えちまえばいいんだ。社会のために市民があるんじゃないんだからよ。

世間がこんなにどうしようもなくなったのも、モトはと言えば、世間が世間にアリになることを求めた結果だろう。アリの頭にはシェークスピアやチェーホフが片鱗にでもあるだろうか。アリはオペラを観に行ったりするだろうか。アリは「妹背山婦女庭訓」を観てホロホロ涙を流したりするだろうか。働いていさえすればそれだけで良いとでも言うのか。いくらこまめに田畑を耕していても、天保の大飢饉がやってくればアリの命だって一貫のお仕舞いだ。

もうみんな、自分にウソをつかずにキリギリスになっちまえ。キリギリスになるってことは、働かないってことじゃない。おおらかに働くってことだ。稼いだ金は趣味につぎ込んじゃう。見栄っ張りに人にメシをおごってしまう。見えないところでオシャレをしてしまう。そういう世の中になるんだったら、僕はこのまま日本はサッサと貧乏になっちまったほうがいいと思う。

そういえば、江戸時代の男ってのは、男は顔じゃねぇやぃ、とか言いながら、しっかり眉毛を抜きあげたり、除毛したり、おしろいを軽く塗ったり、ぬかで肌を磨いたり、お香で服に香りをしみこませたりしていたそうな。むむ。なんか、最近でもよく見かけますなあ。

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