| 2003年1月28日 |
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作曲の合間に、オネゲルの「私は作曲家である」を読み直しています。 まず何よりも、あの愚痴っぽさが自分とそっくりなんですが…、それはともかくオネゲルの「悲観」に対して、今の世の中、誰か明確に強く反論することはできるんだろうか。などと考えると、とっても悲しい現実が待っているのではないか。若い作曲家のフトコロは淋しいままだし、これだけ演奏会があるにもかかわらず新作の初演がある演奏会の比率はほんの数パーセントだし、ましてや時給数円何十銭の世界で書き上げられた作品が再演される機会なんてモノは、日本においては武満徹ぐらいしかその栄光を勝ち取れていない。 武満は生まれた時代と運が良かったのだと僕は考える。いや僕は武満の音楽の内容にモノ申したいわけじゃなくて(申したい作品も多少あるけど)、おそらく日本の戦後において武満だけが日本の「良心的な才能」だったワケじゃなかろうと言いたいのだ。武満の作品はウマイとこを突いていたことは確かだ。そして彼自身、そのウマイところに翻弄されたと僕は考える。武満と言えば「ノヴェンバーステップス」ってのも「ストラヴィンスキーといえば春の祭典」くらい可哀想だ。彼はもっともっと良質な重要な作品を書いている。 それに比べて例えば團伊玖磨は生まれた時代と場所と運が悪かった典型的な例と言えるんじゃないだろうか。いやいや武満に比べて不当に評価が低いから何とかしろよとか、そういうことを言いたいワケではなくて、「日本の作曲家といえば?」と質問されて「タケミツ!」と答える人は多いけど「團先生かなぁ?」と答える人は少なかろう。それは何故なのか?ということ。 「ノヴェンバーステップス」よりちょっと前に書かれた團の交響曲第4、5番の理想の高さ。4番。すごい好きですよ。すごい理想高いですよ。片や「ハーリ・ヤーノシュ」やヨハン・シュトラウスのワルツみたいに珍しい楽器が出てきて外国人の異国趣味をくすぐる内容が主体の作品。(…いや、コダーイもヨハン・シュトラウスも好きだし尊敬してますけど。)自分の信念を申し分無く顕在化できているオーケストレーションに比べて、そんなに効果的じゃない、ハープ聞こえねえっつーの。と言いたくなるようなオーケストレーション。この二者の世間的な評価を分けている要素って一体何なんだろか。 なぜ武満の「ノヴェンバーステップス」は教科書に載って團伊玖磨の交響曲は載らないのか。「ぞうさん」や「おつかいありさん」みたいな子供の歌しか教科書に載らないのか。もっとも「ぞうさん」が載ることは悪いことじゃないかもしれない。むしろ良いことかもしれない。でもそれなら武満の作った歌だって載せてもいいじゃないか。載ってるのかな?僕は知らないけど。 きっと今後、いわゆる調性っぽい音楽を書こうとする人間は増えていくんじゃないかと僕は予想している。ヨーロッパの前衛世代にも最近じゃあ擬似調性志向が見えてるし、きっと世界全体がそういう流れになっているんだろう。いざ「調性音楽風現代音楽」あるいは「現代音楽風調性音楽」が多数派になったとき、我らが愛すべき團伊玖磨先生には時代に埋もれた先駆者の役割が与えられるのだろうか。それはまず無いだろう。そんな役割が与えられてもちょっと違うと思うし、かといって全く何も与えられないのもちょっと違うと思うんだけど。いずれにせよ、無骨に不器用に自分を突き通し良質で理想の高い作品を書いてきた芸術家の生涯は決して無駄ではないことを、何とかヤナーチェクみたいな形で証明できないものだろうか。 しかし、自分でこんな音楽を書いてて、こんなことを言うのも何なんですけど、僕は創作の世界全体が調性っぽい場所に行ってしまうことに対して、あんまり乗り気じゃない。理由は幾つかあるが、そのうちの一つは純粋に音楽的な意味で、調性を書くことの難しさを理解してない人間が調性っぽい音楽を書いてもダメダメになるのが分かりきっているからだ。調性の和声や対位法なんか学校の試験程度で充分だと思ってる人が、調性っぽくメロディアスで尚且つ複雑な要素を持った作品を書くことなんて、言ってしまえばムリだ。「聴き易さ」と「分かり易さ」と「単純さ」を好んで混同している人ってかなり多い。僕は聴衆ではなくて創作家側のことを言ってますよ。 スコアの見た目の密度と実際の聴覚が捉える密度の間には全く関係が無いことは、リゲティ先生が、あの書くのも弾くのも七面倒臭そうな「アトモスフェール」で極端な形で実践していただいたように、分かりきっていることなのだ。が、未だにその教訓を得ていない作曲家は多いということ。リゲティ本人だって教訓を得ているというのに!スコアの密度を濃くすれば点数があがるんだろう程度の「学校式現代音楽思考」で訓練されてしまっては、「単純で聴き易くて分かり易い音楽を書くときには音符の密度を減らせばいいんじゃない?」程度の教訓しか得られないのではないか。そしてこれは大きな間違いであることも気がつかないかもしれない。 僕は、そういう意味で、オネゲルが「サティ」に対して思ったのと同じようなことを、現在の「調性っぽい作曲家」に対して思っている。サティがどんなツモリで言ったのだか分からないけれども、現在ではあらゆる種類のあらゆる音楽が、その「書かれた目的」を一切無視して「家具音楽」の水準に引き摺り下ろされてしまっているのだから、「家具」になり得ない音楽を書いている人のほうが良心的だとすら言えるかもしれない。時代錯誤なことを言うけども、現代では誰もハイドン先生の驚愕で驚愕できないのだ。ハイドン先生がいくら頑張って聴いている人間を驚愕させようとしても、相手は無礼にもハイドン先生を家具だと思っているんだから。耳と精神の硬化! そして悲しくも、我々はそのような硬化した耳を持たざるを得ない社会環境の中で生きていることに変わりは無く、テレビをつけてもラジオをつけてもネットをやっていても音楽が流れてくる。現在では車の中で聴かれることを目的としてポピュラーな音楽がかかれていることをご存知ですか?曲を作った本人はともかく録音の現場やレコード会社はそのように考えているんです。ラジオで流しても「空白」が無いことが音楽の条件なんですよ。 そりゃまあ、東名高速を走りながら西澤氏の「ソニア」を流しても聞こえやしませんて。聞こえないからチャンネルを変えるワケですな。カンチェリを流したら、まず音が出てないので「何だ?」と思ってボリュームを上げまずね。そしたら突然コテコテの短三和音ジャーン!と鳴る。運転手はビックリ心臓バクバクしてハンドル操作を誤り中央分離帯に乗り上げてしまうわけです。あぶないあぶない。こんな危ない音楽なんて聴かせるべきではない。このようにして、現代人は音楽を聴いていて事故る可能性がある。音楽に関して余計な心配を大量に抱え込んでいる。しかし今ではコンサート会場で音楽に出会って思想的な事故や聴覚の事故を体験する人なんて、皆無だ。 いろんな要因がある。ハイドン先生の腕力ぐらいじゃ、ひっぱたかれてもビクともしない耳が多くなったこともある。何せハイドン先生もご高齢なもので。しかし老体にムチ打つのも良くないけど、老体にムチを打たせつづけさせるのも宜しくない。現在生きている作曲家の作品に聴衆を羽交い締めにしてバコバコ殴りまくれるくらいの腕力があるかどうか。聴衆の肩を激しく揺さぶって頬をバシバシ「こらー!生きろー!寝るんじゃなーい!」と、逆に余計に殺してしまいそうなくらい叩ける腕力を持つ作品はあるのだろうか。例えば一昨日のレーガー(編集註:チェロ・ソナタ第四番が某リサイタルにて演奏された)にはそういう腕力があるんですよ。何人も討ち死にしてたし(苦笑)。 実を言うと、若い作曲家のフトコロがいつまで経っても淋しいことぐらいのオネゲルの「悲観」は、それほど重要じゃない。いつの世の中も若い芸術家は貧乏だと相場は決まっている。こればかりは今後芸術家が生まれ続ける限り1ドル360円の固定相場制だ。逆に若くして経済的に充足なんかしちゃったりしたら、芸術家の精神のために宜しくない。一昨日のグリーグ(編集註:同じくチェロ・ソナタ)を聴いていてそれを痛感した。エンターテイメントとして上手くできているから、そういう意味で害は無いのだけど、聴いているほうが事故に遭うような力は無い。そりゃネタとして「一本やられた〜」と思うようなネタには満ちているけど、ネタしかないんだもん。ライプツィヒからの「洋行帰り」で年金が保証されたスカンジナヴィア半島人。これじゃあいかにも腕力がなさそげだ。 グリーグを「何の衒いも無く誠実に仕事をした人だ」と評価することはウソになるし、これでは皮肉にすらならない。しかしそれでも、自らのアイデアを顕在化できる腕には充分恵まれているので、そんなに特別、問題視すべきようなものをグリーグに発見することはできない。そういう種類のものよりも、もっと重要なオネゲルの「悲観」は、芸術家が「絶対的独創性」に御執心である現状、または社会が芸術家に「絶対的独創性」を望む現状、そのものであるだろう。誰も模倣なんか聞きたがらない。それは事実だ。しかし絶対的に模倣を回避することがムリなことも事実だ。 いつでも芸術は根を持って、その根から成長していくものだとバルトークも言っている。時には品種改良で掛け合わせれば違う色の花を見れるかもしれない。しかし何も無いところから自分の超能力か念力かによって、まったくの新種の花を発生させることはムリである。そのムリな願望を持っている芸術家ってのは驚くほど多い。芸術家ってのは発明家ではないのだから、芸術の分野における「醤油チュルチュル」を作る必要なんてどこにもないのだ。 トニックからドミナントの連結のようなありきたりな音楽言語を、いかに非凡に使用するかが重要なのであって、詩は通常の言葉によって書かれるものだ。詩人にとっても作曲家にとってもサラリーマンにとっても歌舞伎町のホストにとっても上野公園のホームレスにとっても「花」という言葉は「花」以上の意味を持ち得ない。そんな当たり前のことを、なぜか芸術家は忘れたがる。無視したがる。「無」に自分を置きたがる。そして社会も、何か良く分からないモノを芸術家に求めたがる。 初演作品が調性的なソナタ形式で書かれていようものならワケもわからずガッカリしてしまう。「現代を書く人かと思ったら、随分とクラシックなんですね」とか言い出す。そこにどんな種類の「現代にしかできない挑戦」が込められているのかを探すことも無く、なんだかモーツァルトっぽいですね。とか言い出す。まったく「古典」らしい部分なんて一つもないのに!…まあ、そんな風に思われるのは実に光栄なことだが! …なんだか、少々オネゲルの霊が乗り移ってきましたね(笑)。 「エリック・サティの音楽を考えてみたまえ、ある種の音楽家たちは天才的だとみているが、あれはだんだんに原始的な単純さに逆戻りしつつある音楽的言語による曲です。和声の豊かさの欠如、対位法の豊かさの欠如…こんな調子で行くと、この世紀の終わる前に、ひじょうに簡略な、野蛮な音楽が生まれるだろう、ごく初歩的な旋律とまったく野獣的に刻まれたリズムをつなぎ合わせたような。紀元2000年の音楽ファンのやつれはてた耳には、それが申し分なくぴったりくるだろう」 とはいえ僕は現在のポピュラーな音楽に対して文句を言うツモリは無い。時には救いようの無いモノもあるのも事実だけれども、これは充分才能が必要な世界であって、現在の社会にとって良くも悪くも必要なモノだ。需要も供給もある。経済が発生している。僕自身も友達のバンドを観に行ったりしてるし、心の底からも彼らを応援している。上質なものと上質ではないものの差は歴然とある。紀元2000年の人間にも言い分がある。かといって世間が「上質なポピュラー音楽」を自ら望んで聴いているかと言ったら、それは別問題だ。 何も僕は小泉やブッシュにフーガの主題を作れるようになれとは言わない。それでも「われわれは食通であるよりはむしろ大食漢なんだ」…こればかりは、気を留めていなきゃならないことなんじゃないだろうか?「飽食」は、人間の精神にそれほど良い影響を与えないものだ。 |