献身
作曲家、演奏家、聴衆。すべては音楽に仕えるべき者たちである

2003年2月20日

音楽史を顧みて導き出せる結論は、結局のところ「強い作品」しか残らないということしかない。これは作曲に限らず、現在のありとあらゆる演奏会場でも確認できることであって、「正しい」演奏が「強い」とは限らないし、時には演奏者の意図し(たくも)ないちょっとしたミスが、急に聴衆の心理を刺激して、集中力を高めてしまうことだってある。伝統的に正しい解釈。習慣的に正しい演奏法。由緒正しい楽器。すべてを正しく武装して、それで音楽が聴けるモノになるかなんて言ったら、そんなわけはない。普通、演奏家という人種は、正しさだけではどうにもならない部分で苦労しているのである。それは修行時代の演奏家であれ、プロとしての名前を持っている演奏家であれ。もっとも、力を抜くことができるのは、力を蓄えた人間以外にはいない。力の抜き方は、どのような方法においても学べない。自分を発見する以外に方法は無いのである。

いくら後世の人間が、ハイドンとモーツァルトの様式感の「決定的な相違」などを証明してみせたところで、実際のところ、それはすぐに判別できるほど明確な違いとしては表れない。作曲家はレパートリーを提供する職人であって、聴衆は新しいレパートリーを求めていた。ソナタであれ、交響曲であれ、ある曲は別の曲を手本として出来上がっているのだし、「実はベートーヴェンの方こそが模倣者である」という実例をいくらでも挙げることが出来よう。ソナタ形式の主題部を二回繰り返すのは、聴衆にテーマを覚えさせる以外の意図はないわけで、そこに美学上の問題など入り込む余地は無いのだ…というのは少々言い過ぎかもしれないが、その人特有の美学は主題にも表れるかもしれないけれど、その人の意図は展開部を聴いてみないことには分かり得ない。その人の技術は、展開部を聴かないことには分かり得ない。主題が頭に湧くなんてことは何の努力も要らない。それは向こうから降ってくるのだから。いくらそれが比類無いほどに素晴らしい物だとしても、それは天というか、神の手柄、としか言いようが無い。しかし、1分の作品であれ、1時間の作品であれ、とにかく一つの作品として形成するところに、作曲家の努力は現れるものであって、そこが芸術で最も重要な部分である。

ある人が他の曲を手本にすることによって、その人自身の独創性が完全に失われることは無い。だからこそハイドンやモーツァルトは大家としての名前を残せる結果になったのであって、ベートーヴェンの言い草ではないけれども、時として作曲家に「神に近い火花」が降り注ぐこともある。どれだけ「強い作品」を作れるかは、どれだけ音楽に「没入」したか。その度合いによるのであって、…確かに作曲家は折衷主義の人間であるべきである。自分に何ができるのか。それを様々な見地によって徹底的に試してみるべきである。それは作曲家に与えられた自由と義務だ。しかし、それは自分自身の能力に対する探求で無ければならず、どこからか拾って見繕った「個性」が真の「個性」になるはずは無く、逆に、いかなるスタイルで書いてみようとも、自分が真に個性的な人間であるならば、必ずやそこに自分の個性は表れる。表れないはずはないのである。「個性」とは、何かを手本にすると忽ち失われるような性質を持つものではなく、何かしらの自分の本能によって仕方なく「はみ出してしまう」部分にある。誰もやっていないことを探すのが「個性」ではない。それは「個性」ではなく「特許」である。結局、自分を発見する以外にない。絶望的に自分を信頼してみる以外にないのだ。

そのような意味において、五線紙の書き方を知っている人間ならば、本来、自分特有の音楽を書けるはずである。一人の人が出来るのに他の誰にも出来ないことなど無い。出来ないのは、やろうとしていないだけの話である。人は誰しも他人と同じ形の手や腕を持っていないのだから、本来、自分の野性を信頼すれば、他人と同じ様式を用いても、他人と全く同じ場所に音符を書き入れるはずなど無いのだ。様式の差は確かに大した問題ではないけれども、しかし、これは全く問題にならない問題ではない。様式を完全に問題にしないのは、様式への敬意が足りない証拠である。模倣をすることを問題にするのは、模倣される側の作曲家への敬意が足りない証拠である。個性を拾ってこようと意図するのは、自分には個性が足りないと思っている証拠である。自分への信頼が足りない証拠である。誰しも、曲を発表するに当たり、自分の耳を完全に信頼した先にいる聴衆に向かって、その聴衆の心理を満足させなければならないのだから、自分を信頼しないことは、つまり聴衆を信頼していない証拠である。

音楽は作曲家や演奏家と、聴衆の間に行われる暗黙の了解ではないだろうか。どのような音楽であれ、誰の音楽であれ、結局、音楽を完全に理解することは無理であって、演奏家は作曲家の意図を完全に知ることは絶対に出来ない。聴衆は作曲家の意図も演奏家の意図も完全に知ることは絶対に出来ない。かといって、作曲家は自分が書いた音を完全に理解しているのかと言えば、まったくしていない。絵画であれ、詩であれ、ありとあらゆる芸術が行われるとき、作者は自分の作品の意図を半分ほども分かっていない。しかるに果たして我々はベートーヴェンの音楽を完全に理解できるだろうか。我々はあの時代を生きてもいないし、ベートーヴェンの生活をしているわけでもないし、くしを通せない固い髪を持っている人もそれほど多くは無いし、ツェルニーが自分の玄関の門を叩きに来るわけでもないし、耳が聞こえない生活を送っている人々は少数派だ。そのベートーヴェンでさえ、恐らく彼は彼自身の音楽の価値を半分ほどしか理解していない。人は結局、他人の人生を生きることは出来ず、自分の人生を歩くしかない。しかし、我々は彼の作品を芸術作品として認知しているし、そこには何の問題も無い。彼のことを大いに誤解しているのかもしれないが、誤解であっても、美しいものは美しいのだ。それは何かしらの手段によって鑑賞者の心を掴む。逆に、鑑賞者の側でも、さも自分は理解しているのだと公言するような者は、おそらく音楽への敬意が足りないのである。

いかなる形式であれ、まずは自己を完全に信頼すること。自分の耳に全ての決定権を委ねること。それは、決して自己礼賛には繋がらない。むしろ積極的に正反対の概念であると言い切っても良い。自己を信頼することは、聴衆を信頼することであると信じること。作曲家は、演奏家の次の演奏会のために作品を書かなければならない。自分が作品を書くことは、演奏家への信頼の証であると信じること。演奏家と聴衆を信頼することは、結局は音楽へ敬意を払うことに繋がると作曲家が信じること。作曲家の精神を探求することは、結局音楽へ敬意を払うことに繋がると演奏家が信じること。自分の趣味で好き嫌いを積極的に判別し、その判別に自分で責任を持つことが、結局音楽へ敬意を払うことに繋がると聴衆が信じること。作曲家であれ、演奏家であれ、聴衆であれ、パリやヴィーンなどという固有名詞ではなく、まさしく自分が今いる場所が世界の芸術の中心点であると信じること。それが、とりもなおさず、芸術史を形成するということであることを信じること。決して作者は自分の作風を決定することが、…それは時に自己の形成に役立つことは多少はあるかもしれないとしても、芸術史を形成することに繋がるとは夢にも思ってはならない。何か一つの作風を決定しても、それが自分の中で枯渇したときに捨てられないようでは、決して芸術家としての立場として褒められたものではない。それに、一人の人間だけが歴史を動かしてきたわけではないのだから。そして、音楽だけを中心に考えるならば、作曲家、演奏家、聴衆という役割を託された音楽家群は、ひとつ音楽家群自身の、今後作られる歴史に対して奉仕しなければならないことを肝に銘じなければならない。それが、音楽への献身というものである。

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