捨てる
自分を打ち捨てる道こそ、真の「前衛」の道である

2003年3月6日

今までに頂いたメールの中から、どうしても紹介したいモノがあるので、プライベートなことを勝手に引用してしまうことは本当に申し訳なく思うんですけども、そこら辺には手を加えましたので、心当たりのある2名様。無断借用許されますでしょうか?というか、もう書いちゃったので、事後承諾。許してください。
『私は働きながら音楽をやっておりました。「生計」に未練があったのですね。でも時間の制限や、生活に追われて精神世界に生きられない自分に嫌気が差し、今年になってやっと音楽以外の物は全部捨てる事が出来ました。今は思う存分ピアノを弾き、曲を作り、生活しております。』
『かれこれ一月ほど前に、突然、自己破壊衝動に駆られ、40年近く働いてきた仕事を投げ捨てました。本来許される事ではありませんが、やり掛けの仕事も謝り降りました。仕事に魅力がなくなったのです。正確に言えば、私自身を取り巻く環境に価値を見出せなくなったと言うべきでしょうか…。もう一つの理由は、家内がなくなった後、一言では言えないさまざまなことが澱のように溜まり、その澱で窒息しそうな自分が怖くなったこともあります。貯蓄ナシ、収入ストップ。先のことも考えずの暴挙です。しかし、今ほど心が静逸の時はありません。こんな時間はこれまで何十年も経験した事がありません。一度、頭を真っ白にしてこの先を考える事にしました。』
みなさん。これ、どのように感じますか?

確かに僕は以前「何とかしたかったら全て投げ捨ててしまえ」みたいなことを書いた。それは本心からそう思っている。ヘンリー・デイヴィッド・ソローだって、そう言っている。そして、ここに引用したこの言葉は、そのように行動している人の言葉だ。このメールを受け取ったとき、僕は物凄く感動した。なんて一言で片付けると、なんだか安っぽくなるけれども、そんなもんじゃないのだ。上の二つの文章を読んで「仕事から逃げただけじゃん」なんて悪態をつく人は、本当に何も分かってない人だ。何も捨てた経験の無い人だ。

彼はあまり紹介されるのを望まないだろうけど、友人にもう一人、こういう人がいる。同じ大学の先輩なのだけど、偶然にも僕と同じ時期に大学を中退して実家に帰って、それなりに音楽をやっていた。ところがある日、事件が起きる。多額の借金をこさえた親が、どこかに消えてしまった。借金取りに追われる毎日。毎日自殺を考える。20代前半で一千万単位の借金を背負うとは、どのような心境だろうか。家を売って車を売って、あれもこれも売り払って、何とか借金を返すことは出来た。もう自分には何も残ってない。一度捨てたような人生。もう、自分には音楽しか残っていない。再び東京に上京して、今、彼は思う存分ピアノを弾いている。

当然、ココには書ききれないくらいのドラマがあって、というより、先に挙げた二人にも、ココに書ききれないほどのドラマがある。自分の環境を捨てたいと望んだ人。自分の環境を捨てなければならないほど追い詰められた人。自分の環境を否応無く捨てなければならなかった人。僕自身は、捨てなければならないと思いこんだ人なので、彼らから見ると、本当に大したコトは無いのだけれど、「捨てた」という一面において精神は共有している(と、思いたい)。だから、どのような状況であれ「捨てた」人に尊敬の念を送るし、心の底から、すごいなぁ。と思えるのだ。これは感動なんて生易しいモノではないのだ。

生計を確保しなければ良いのかというと、それはちょっと違うのだけど、人生において一番重要な問題は、「何を捨てるか」ということだと思う。何を捨てるか。要するに、自分を捨てるべきだ。少なくとも一度くらいは自分を殺さなければならないのだ。自分らしく生きてますなんて顔をしたヤツの人生に、悲壮的な切実さなんて漂うはずは無いのだ。僕はそれを深く確信している。もっと積極的に、自分らしく生きる必要なんて無いと言いきっても良い。自分を残酷に叩き落す。自分の息の根を止める。それが結果的には自己を解放することに繋がる。何も捨てられない人は、結局何も得られない。「生計」とは、その「自分」というモノの一つの象徴であるに過ぎない。

僕は、先の三名が、どんな仕事をしているかまでは良く知らないのだけれど、きっとそこには、何かを発見した歓びが反映されているだろうと思う。自分を捨てるということは、対社会的な自分の評価さえ屁とも思わないということであって、そのような人の仕事に誠実さと真剣さが無いはずは無いのだ。

僕自身のことを言えば、僕は音楽史に無頓着になるという方法を選んだ。もちろんそれだけではないのだけれど、少なくとも音楽史の下で喘ぎながら音楽、または音楽みたいなものを書くことなど、僕には到底できないことだ。しかし、これは自分の評価を必ず下げる結果に繋がる。もしもプロフェッショナルは知識や財産や社会的地位の堆積で成り立つというのなら、僕はアマチュアであろうと思うし、それも、世界で一番幸福なアマチュアでありたいと思う。…まあ僕はプロとアマの差はそんな場所にはないと思っているが、それはまたの機会に書くとして、自分の書く音をどのように社会と接点を持つ形式に仕立て上げなければならないか、なんてことを考えるヒマがあるのなら、音楽そのものの歓びを追求したほうが良いと思っている。もちろんこれは些細な一つの例に過ぎない。

こういうことを文章化するのは少々気恥ずかしけれど、前衛であるということは、それはスタイルの問題などではなくて、それは、まさしく生きるということの根本問題であって、哲学的な命題だ。自分自身に対して前衛であること。つねに自分を変革し続けること。現在の自分の環境を変えるために何かを捨てること。もしも可能ならば、それを社会的に反映させること。本当は一人の人間の自我の中で革命的な出来事は、社会的にも前衛であるはずなのだけれど、それを社会に知らしめるためには自分以外の要素、すなわち運が必要だ。しかし芸術家に限らず、運の有無に限らず一つの「前衛」であった人間の人生は決して無駄なものではない。そう信じることが出来なければ人生なんて生きるに値しない。

本当に人間なんて怠惰な生き物で、考えることにも、生活するにも、できるだけ怠惰な道を選ぶ。自分がこそが大事で、自分以外のモノは大事ではなくて、自分が我慢しなければならないのは環境のせいだと思いたがる。でも僕は、先の三名の口から、自分が不運なのは環境のせいだという趣旨のセリフを聞いたことなんて一度も無い。あの借金をこさえた親に対しても、笑いながらこの話をしていたくらいなので、そんなに恨んでる風でもなさそうだ。いや、本当はどう思っているのかまでは僕は知る由もないけど、少なくとも、そんな恨み節を人の前で言うことは恥だと思っているに違いない。それがなかったら今の自分はないのだから感謝しているとまで言う。そのような人を目の前にしたら、自分以外のモノを精神的にも、時には物質的にも排除して、自分の気道を確保しようと必死にもがいている種類の人間に対して、おまえはそれでいいのか。と問いたい気持ちになるのは仕方ないではないか。

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