個性について
成長などしたくない者こそは大いに個性を語って良い

2003年7月19日

なんだか世の中ではえらいことをしでかした中学生がいるとか、渋谷で夜の職業にご執心な小学生がいるとかで、個性重視、ゆとり重視の現代教育もさぞかしご満悦のことでしょう。なんてったって彼らは、法律も足元に及ばない独創性豊かな子供に育っているので、今後ますます彼らのような個性を尊重して、なおかつその芽を伸ばしてあげてほしいと思います。

などというのは、もちろん反語的な意味で言っているのであって、本当の意味で存分に個性を発揮する存在というのは、得てしてこういうものだ。学校に入って、会社に入って、さあ個性を発揮してくれと言う。でも、エレベーターの中で必ず小便をする個性を持っている人の場合、通常は非難される。というか、精神病院に連れて行かれるし、人を見たら殺さずにはいられない個性を持っている場合、刑務所に連れて行かれる。というのが少々極端だとすれば、たとえば日本国内において、「私の意志が完全に尊重され個性が発揮されるのはアラビア語をおいてほかに無い!」などと主張して「ビスミッラーヒ」なんて突然言い出されても、ちょっと待ってよ。ということになる。

文明の理解や発展は共通理解を経由するはずであって、その共通理解は、誰が何と言おうと社会的な「常識」を前提として進められるべきである。代々木上原にあるモスクの中ならいざしらず、地方の公民館の講演会で弁士がアラビア語で演説しても、理解できるわけがないし、迷惑ですらある。しかも演題が「マヤ文明の発祥について」とかだったらちょっとどうしよう。コミュニケーションの前提には「常識」があるべきである。この場合、日本人同士の会話には日本語が使われるという「常識」に基づいて行動されるべきであるということだ。それを一切無視したら社会は成り立たない。

自分の個性を発見し主張するというのは考えてみればおかしな話で、たとえば親の骨髄液がそのまま自分に移植できる例なんてほとんど無いわけだし、自分とまったく同じ顔を持っている人なんて世の中にはいないわけであるし、まあ、あり得ないくらいそっくりだとしても、別人に代わりないわけであって、自分の体は自分の個性をすでに主張しているわけだ。その別々の個が互いの共通項を見出そうとするところにこそ文化は発生する。たとえば、同じ個体がひとつもないにもかかわらず、我々を指して人間と称するように。とか。誰も見たことがないのに何か漠然とした一元を神と称する。とか。

共通理解を広げるために必要なことは、共通理解を得られやすい「形式」を用いることであって、これはある意味、単純化するということだ。創作とはグチャグチャしたモヤモヤしたフニャフニャしたものを簡略化する作業だ。などというと極端に毛嫌いする作曲家とか作曲家とかもいるかも知れないけれども、これでおしまいである。これと、複雑に趣向を凝らした作品を書くこととの間には因果関係はないはずである。シェーンベルク先生だって、それっぽいことを仰ってらっしゃる。そもそも紙に音楽を固定している時点で簡略化されているのであって、それがイヤなら作曲なんてしなければ良いだけだ。世の中には即興という手段もある。でもコレだって、音にされている時点で簡略化されているのである。だったら自分の頭の中だけでモヤモヤを続けていれば良い。でも、そうしたら一体なんのための音楽家なのか。別にいてもいなくても良いじゃない。

「常識」や「形式」を、なにやら別のありきたりで有り難味の無いものと勘違いしている人々は今なお多いわけであって、一体世人は個性に何を期待しているのだろう。自分の個性をとかく主張したがる人を僕がイマイチ信用できないでいるのは、自分は絶対に変わらないと思っていないと個性は主張できないからだ。個性の必要以上の美化とは唯一性の必要以上の絶対視である。だから、昨日も今日も明日も明後日も自分は自分。絶対に変節いたしません。今日にでも火事が起こって家が焼けるかもしれないなどとは到底考えていない人でなければ個性は主張できない。これは自分で「私には成長がございません」と言っているようなものだ。こういう性格で経済的に得するのは、せいぜい新興宗教の教祖くらいのものである。

唐突に言うけれども、何かを知るということは過去の自分を殺すということだ。今日の私は昨日の私じゃございません。というのが成長であって、その人物の思想が今日と昨日とで豹変して、なおかつそれを世間に公表できるという人物は(政治家以外は)信用に足りる人物なのである。芸術という世界では、それが本来、特に尊重されるべきであるし、それが身体の持つ本来の個を無条件に信頼することにつながる。芸術の実験はそのような立場に立って行われるべきだと思うし、さあ、あなたの個性を思う存分伸ばしてみましょう。とか、あなたにしか理解できないことを探してみましょう。みたいな、安っぽい立場で行われるべきではない。これでは文化は発展しない。創作する人間はあくまでも今後さらに良い作品が登場する世の中でありますようにと夢見るべきである。などと思っている僕は古い人間なだけなんでしょうか。

でもその割に詩人は「ああ」とか「おお」とか、詩人しか使わないような感嘆詞を使いたがる。これは無意味な専門意識だ。随分と周囲を窺っている。個性を尊重されるご時世の割には、最近の日本音楽コンクールなんかで「交響曲第2番変ホ長調作品28」みたいなタイトルの作品が入賞したなんて話は聞いたことが無いし、逆に若き日の小野洋子みたいなものが入賞した記憶も無い。いや、ひょっとしたら、僕が調べ切れてないだけなのかもしれないけど、妙に周囲を窺った作品が登場してくる。最近で明らかに浮いて出ていたのは川島氏の作品くらいじゃないだろうか、なんて自分のお師匠さんをここで持ち上げても仕方ないのだけど(それにもう「最近」じゃないというウワサもある)、それはともかく現在において「個性を主張しなさい」とは、社会という「組織が望む個性」を主張しなさいという意味じゃないだろうか。これは矛盾している。だったら最初から言わないほうが良いじゃない。

というわけで、子供に教えるべきは個性じゃなくて社会と社会に流れる共通意識だ。と、無理やり結論付けてみるのだけれど、エレベーターで悪戯におしっこした子供が、それも個性だとか言って叱られなかったら、この世の中どうなっちゃうのだ。ってのがあまりにも例えが悪いとしたら、うちの子には英語をしゃべってもらいたくて。とか言って家庭内では日本語禁止とかやってる家庭で育った子供。学校に入ったは良いけど英語しかしゃべらない。これは普通に鬱陶しいですよ。今後の明るく健全な社会のために、個性とか言うのやめましょう。などと、本来社会に先んじる役割であるべき芸術家がそういうことを言ってみましょうよ。などと言ってみたい。社会的に迷惑な天才など、もうオールドファッションではないでしょうか。とか言ってみたい。もっと積極的に、真に価値ある創作は常識と苦労がよく身についた人間から生まれるものだ。みたいなことも言ってみたい。

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