商業音楽
それは、他人の部屋を掃除するようなものである

2003年8月14日

僕の音楽を好いてくれる友人が、「インディーズレーベルでCDを出すってえのも一つの手なんじゃない?」と助言してくれた。助言してくれたどころか、かなり具体的な話まで持ってきた。つまり、僕の意思さえ固まればすぐさま話が動くような話を持ってきた。あまり具体的な話をここで出すのもアレなので止めておきますが、とにかく愛情を感じました。ありがたいことです。

その肝心の自分の意思なのだけれども、実は結構乗り気でいたりする。商売だけが全てだと思っている者は軽薄だと思うが、商売を軽蔑する者は愚鈍である。理解されたいと望むことは本来、人間における欲望のひとつであって、そりゃあ僕だって、いつか俺様の時代が来るから見てろよこんにゃろ、くらいの野心を胸に、毎日台所でネギを刻んでいたりするのである。とはいえ、何もかも趣味的に生きている僕は、メジャーレーベルで生きるのも苦労が多いんだな、と某氏を見ながら思うわけで、彼は忍耐力の塊だ。僕には真似できそうにない。インディーズというのは確かに僕の性分に合っているようだ。おまけに、こんなジャンルの音楽も出してみたいとか言ってる会社も、なかなか骨があると見受けられる。


本領の創作とは自分の100%の実力をそのまま体現したものでなければならず、つまり作品は自分そのもの、良くも悪くも自分の全てでなくてはならず、掃除機で例えれば「弱→中→強→フルパワー」のうちの、モーターの能力そのものである「フルパワー」でなければならず、それで床を掃除するのはもちろん、戸棚だろうが引き出しの中だろうが、消しゴムやら画鋲やらがスポンスポンと吸い込まれてしまっても、あー、またやっちまったー。ま、いっかー、などと妙な快感に打ち震えながら、かまわず掃除しなければならないのである。これはとにかくキレイになるが、時として他人の部屋の掃除には不向きである場合もある。

逆に商売としての創作とは、もちろん「強」を使うこともあろうが、時には「弱」あるいは「中」で、先っぽには細いノズルだとか「スーパーはぼき」みたいなものをくっつけて、消しゴムやら画鋲やらは決して吸い込まないように、他人の部屋の掃除を任されても決して消しゴムを喪失したりして迷惑をかけたりせぬよう、心配りが必要である。と同時に、多少のホコリが残るのは覚悟しなければならないし、その按配の巧妙さ(悪く言えば狡猾さ)が必要にもなる。「弱」や「中」の能力を100%使い切るということである。これは決して、「強」の力の30%で良いなどという意味ではない。ここを勘違いしている人は結構多い。

自分の創作姿勢を考えてみるに、僕はいつだって必要なものを拾い不要なものを捨て、100%の「フルパワー」で曲を書いてきたことを自負している。または、そうであるように努力してきた。それどころか、実生活でも掃除機で消しゴムや画鋲をスポンスポンと吸い込んできた。しかし、「弱」の能力を100%使い切ることによって見えてくる世界、気付かされる世界もあるんじゃないかと思うのである。商業という観点で曲を構成することも、自分にとって有益な修行の一つになるのではないか。商品として音楽を提供することに何ら倫理的な悪を発見することは僕にはできない。まあもっとも、売ったところで本当に売れるかどうかは誰にも分からないのであります。


ピアノをよく習得した作曲家はピアノのための練習曲を書けるだろう。こうした練習曲は初心者に弾く技術を与えつつ音楽する喜びの道しるべを示すことができる。となると、聴衆も音楽家であるのだから、聴衆のための練習曲があっても良いかも知れないし、聴く技術を与えつつ様々な音楽を喜べる聴衆になるための道しるべを用意することもできるかも知れない。そしてこれを書けるのは、よく聴くことを習得した作曲家だろう。と書いてみると、自分では役不足なのではないかと少々不安にも思うけれど、最近、そういうことに人生の時間の一割程度くらいなら割いても良いような気がしてきた。けど、この話。どうするかは未定である。

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