| 2003年10月14日 |
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我が国にはその昔、「お客様は神様です」という、なんとも温かくて包容力のある、八百万の神の国にふさわしい大変素晴らしい名言を残した偉大な人物がおられた。それに比べて、独逸の方にいたらしいニーなんとかっていう人がツァラなんとかって本で書いたという「神は死んだ」って言葉は、いかにも無粋で残酷で殺伐としている。私はかくも温かき国に生まれたことを神に感謝する。って、この場合の神は一体どの神なんだろうか。 まあ、こんな前置きはともかく… 古典作家と現代作家の比較で議論になることは結構多いように見えて、要するに現代作家の現代的技法の偏愛は冒険なのか怠慢なのか、という論点である。こんな風に大雑把に二つに分けて議論をすることは、言ってしまえば、そもそも不毛であって、冒険しているからこそという人もいれば、ただの怠慢で書いている人もいるし、一人が一生のうちに書いた作品の中でも、冒険的な作品に分類できる作品もあれば、ただの怠慢な作品と区別できる作品もあるわけで、こういうことを言葉に書いてみると、なんとも至極当然な話なのである。 だいたい、一生ハイテンションのままに生きる人なんてそうはいないわけで、もしいたとしたらその彼は必ず病院のご厄介になっているはずだ。作家は別にどこか違う世界で生きているわけではないし、普通にお百姓様が作った米を食べて、普通に東京電力に電気代を請求されて、平凡な日常を生きているのである。仕事がうまく行く日もあれば、まったくうまく行かない日もある。日常から得られる文学的素材なんて皆無に等しい。 日常が日常である以上、古典作家が書いたものは須らく傑作であるとする態度も間違っているし、例えばハイドン先生のジプシートリオなんて、あれは明らかに手抜きですよ。それでも、ハイドン先生の元来のお茶目な性格と非凡な才能と周囲の社会的伝統によって、どうにか手抜きの手が抜けていない状態にはなっているので、エンターテイメントとして充分に利用できるほどの品質は保てているのである。ていうか僕は素直に楽しめてしまうけれど、でもあの曲の何が手抜きかを指摘できる音楽家は、現在どれほどいるのだろう。 モーツァルトは革新的な作家だった。これは確かにその通りであるし、だからこそ言うのも簡単である。しかし…これは言うのに度胸が要るけど…モーツァルトの書いた音の全てが革新的だったわけではないし、それこそ残っている書きかけの草稿の中には、これがあのモーツァルトの書いたものなのかと目を疑わざるを得ないほど、音楽にすらならない割と最低な種類のものだってある。(ゴミを漁られてしかも文句を言われるなんて、うっかり名を残すと恐ろしいもんだねぇ。)純粋に考えて、あんな短い人生なのに、冒険だけを作曲の拠り所にしてしまったら、そもそも600曲もの作品を書けるはずがないのだ。いくら天才だからとはいえ、物理的な時間もあろうに。 冒険を頼りにしないとは、つまり、例えばバッハの一連の無伴奏ヴァイオリン曲は、もちろんバッハ自身の天才性の発露であるのは言うまでも無いが、同時にH.I.F.ビーバーの無伴奏曲やピゼンデルの無伴奏曲の勉強の成果でもある、ということだ。バッハは何のためにヘンデルやパッヘルベルやヴィヴァルディの楽譜を写譜していたのか。編曲作品が残っているのは何のためか。あるいは、ラテン語の教師や子育てに追われる日常の何処に天才を天才たらしめる鮮烈な文学的素材が転がっているものだろうか。そのような考察抜きにバッハをただただ神棚に奉るのも、いかがなものかと少々思う。 逆に、例えば「前衛世代」を礼賛するのも、やはり簡単である。しかし文化はどうしても前提を要求するもので、この場合に要求されている前提は「あの時代」と「あの音楽史的位置」である。その前提を踏まえずして無条件に礼賛することは、正しくないとは言わないけれども、しかし全体像を見落とすことに必ず繋がる。古典作家を無条件に礼賛するのと全く同様である。目の前5メートル先の地面だけを見続けていては道に迷う。はるかに前のほう、あるいは後ろ。あるいは横。様々な風景を情報として仕入れ、それを基に人は自分が今何処を歩いているのかを知るのである。だからこそ、平凡な日常を観察する眼力の有無は、作家にとって非常に重要なものになる。 古典作家であれ前衛世代の作家であれ、一体人間には何が出来て、逆に何が出来なくて、知ったことによって書けるものもあれば、知っただけでは書けないものもあるということを知るために「冒険的」な作品を書くのである。音楽に愛情を持っている以上はどうしても音楽史ともども経なければならない重要な過渡であり愛すべき悪戦苦闘なのである。そして冒険だけでは音楽史は紡げないし、音楽という芸術の性質上、職業的な修練はどうしても必要であり、もっと言えば冒険を超えたところの職業的修練に音楽の価値は見出されるべきなのである。 ただし、現代作家と古典作家の一番大きな違いといえば、現代作家には見なければならない過去がその分増えたということである。先人の土俵で勝負できるほどの度胸と技術が無かったら、新しい土俵をつくることは出来ないし、それが音楽の職業的修練というものである。過去の音楽家に影響を受けるということが現在ではタブー視されている部分があり、こういう状態が良いこととは、やはり僕には思えないのである。コンスタンツェの趣味とはいえ、モーツァルトがフーガを手がけたのはどういう意味を持つか。ベートーヴェン(1770年生)がバッハ(1685年生)の作品を研究してフーガを書いたのはどういう意味を持つか、あるいはベートーヴェンがモーツァルトのハイドンセットの第五番の楽譜を写譜した意味を、考えなければならない。それでも過去を見つめることを非難するのであれば、リゲティが無伴奏ヴィオラソナタのひとつの楽章に「シャコンヌ」という言葉を用いたことも同じく非難されるべきである。 と、まあ、議論となると無条件にどちらかに偏った意見しか出てこないけれども、まあそれは議論だから仕方ないとはいえ、もうちょっと柔軟にならんもんかねぇ。とは思うけど、無理やりにでもモノを二つに分けてそれぞれの立場を戦わせるのが、すなわち「知性」でもある。仕方ないか。 …しかし、いざそんな議論を見ていると、やっぱり現代作家を味方する側のほうが甘い環境にいるなという気がする。要するに「現代音楽って良く分からない」という言葉に過剰に反応するのだ。温室から出して、少しくらい外気に当てて、ウイルスひとつじゃへこたれないくらいに免疫をつけなきゃいけないのである。それに、よく考えて御覧なさい。分からないということは、分からないということが分かる程度には現代作品を聴いて下さっているのだ。なんつっても僕の小学校の音楽室の年表では、ショスタコーヴィチがまだ生きていたのだ。さすがにもう貼りかえられているとは思うけど、そういう環境で育っているにも関わらず、分からないとまで仰って下さっていらっしゃるのである。感謝しないと神罰が下る。 いやね、音楽ってモノはね、分かる分からないとか、そういうもので聴くものじゃないでしょ?固定概念を捨ててちゃんと聴いて御覧なさい。そりゃまあダメな作品もあるけれど、良い作品も当然あって、例えばコレとかアレとか。ね?もっと数を聴いて欲しいんだなぁ。などという正論を吐くのは簡単なのである。僕も以前はそのように説得しようと試みた。若かったのねぇ。しかし、「良く分からない」とは、なかなか含蓄のある言葉であって、書くと長くなるけど、もう充分長いけど、書くか。仕方ない。 先日、友達がコンチェルトのソリストをやるというので、久々に演奏会に出かけた。その日のプログラムはブラームスの某序曲に某協奏曲に某交響曲。ブラームスづくしである。その日の演奏といえば、友達は大健闘をしていた。指揮者も良かった。オケの団員はブラームスの音楽を消化しきれていなかった、という感じ。で、久々に大きいホールで久々に大量の人間を見たので、少しばかし客席を観察していたのだけれど、これがなかなか興味深かった。要するに、誰もブラームスについていけないのである。誰も彼も首がナナメって口は半開きになっている。呆然としていらっしゃる。それはもう面白いくらいだった。 お客様は神様である。と、正直思った。だって、実に正しくブラームスに対応しているではないか。有名どころの作品は有名な作品だという固定概念によって有難がられていると思っている人もいるが、とんでもない。そういう人に是非とも見せてあげたい光景だった。第一、現在の日本において、ブラームスの内臓を好んで食べる人と、クセナキスの姿焼きを丸呑み出来る人のどちらがより多いかと聞かれたら、ひょっとしたらクセナキスのほうが多いかもしれない。そして、そのようにクセナキスを愛好する人が、クセナキスであるという理由によって無条件にクセナキスのどの作品をも愛好している可能性だって、決して否定は出来ないのだ。…なんか今、色んな人を敵に回した気がするけど、まあ気にしない。いいのさ。僕なんて、どうせイメージ良いタイプじゃないんだから。 音楽家が思っているほど、聴衆は固定概念で音楽を聴いてはいない。むしろ実に正直に反応していると言っても良い。普通に考えて、異国の天才である作家の作品に、我々田舎者の凡人が共感するほうがおかしいのであって、だから、口を半開きにして呆然としているのは、これ以上ないほどの正しい反応の姿なのである。もっと突っ込んで言えば、初めてその音楽に触れる人の口を半開きにさせられないようでは、作品に力が足りないよと言われても仕方ないとも言える。そして口が半開きの聴衆からは、不思議なことに決まって盛大な拍手がやってくるのである。 人は分かったときに拍手するものではないし、聴衆の前提は理解ではない。乱暴に言えば、むしろ無理解にあるとすら言える。だって、ゲームだってクリアするのが大変なほうが燃えるじゃないさ。腰くらいの高さから落ちただけで死んでしまう「スペランカー」みたいなゲームって、やっぱり覚えているじゃないさ。ていうか、あんなにひ弱なのに洞窟の冒険なんてするなよ!って思うじゃないさ。いやぁ、しかし、幼い頃はあのゲームで忍耐力を鍛えたもんだよなぁ。ああ、最近ゲームやってないなぁ。…全然関係ないですけど。 逆に、瞬時に「こんなの良く分からない」と言われたとしたら、そういう意味において、やはりその作品の価値を疑ってみたほうが良いとも言える。それはその作品が決して分かりにくいものだからではなく、全く逆に、単純で実に把握しやすいものである証であるかもしれないからだ。つまりクリアが楽なゲームなのである。もしも機会があったら「分からない」とのたまう本人に直接話を聞いてみると興味深いことが分かるだろう。僕は実際に試したことがある。とあるコンサートに友人を連れて行って、帰りにお茶したとき、その彼は予想通りに「分からない」と言った。何が分からなかったの?と聞いてみると…いや、実にその作品の欠点を言い当てていたりするもので、だからこそ、今、僕が一番恐れている言葉は、瞬時に言われる「分からない」なのである。 まあでも、「良く分からない」と言われたら、「なるほど、お気に召さんでしょうなぁ」と返せば、本当はそれで良いのである。印象に残りさえすれば、良く分からないと言いつつ、また聴きに来たりするものだし。もしも「お前の曲はダメだ!」と怒鳴り込んでくる人がいれば、「すいません。勉強させていただきます。」といえば、それでOKなのである。ちゃんと商売できている音楽家は、こういうことを経験でわきまえているもので、そしてこれは決して卑屈なことではない。頭を下げているスーパーのレジ打ちをしているおばさんたちを誰が卑屈と思うものか。誇りをもって頭を下げるのである。音楽家だって普通の客商売なんだから。 |