| 2003年10月17日 |
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「ヴァイオリンとチェロのための組曲」の初演は「フィリア美術館」という、八ヶ岳にある小さな美術館で行われた。この美術館は天井が高くて、オルガンまであって、とても響きの良い場所で、まあ音楽会も何回も行われているようだけど、音楽ホールとしても申し分ないものだった。それに、初演の演奏も素晴らしいものだったけど、今日の話題は敢えてそれではなくて、この美術館で見た版画…渡辺禎雄という版画家の話。 96年に82歳という高齢で亡くなられたこの方。検索すれば彼の版画も幾つか出てくるので是非ご覧頂きたいのだけど、まあ本当は実物も見て欲しいけど、日本の型染め技術や和紙を用いて聖書を素材とした版画を製作されている。僕は美術畑の人間は無いので専門的な講釈は少々勘弁願いたいが、本当に印象的な版画だった。特に、十字架にかけられるキリスト。そして、十字架から下ろされるキリスト。絵で感動することなんて僕は殆ど無いのだけれど、これには心の底から感動して思わず泣きそうになった。ていうか、ちょっと泣いた。 例えば彼の「最後の晩餐」。キリストとその弟子たちは最後の晩餐で、パンなんかじゃなくて、よりにもよって鯛の尾頭付きと寿司を食べている。アイデアをだけ見ると奇抜である。見た最初は笑った。そうくるかー!と思ったけれど、通常、奇抜なアイデアというものは単に奇を衒っているものであって、それはただ単に奇であるものだ。故に「いやらしく」なる。ところが彼の「最後の晩餐」には、そういったいやらしさが無い。むしろ、最後の晩餐は本当に鯛の尾頭付きだったんじゃないかとまで思えてくる。 それに、彼が「イエスは弟子の足を洗った」エピソードを数多く絵にしたことにも深く共感する。キリスト教会の中には色々と本当にどうでも良いことに関して議論を繰り広げるものもあり、例えば洗礼に使うパンは発酵させるべきかさせないべきか。ワインの飲み方はどうするのか。などなど。そしてこれは儀式となった。イエス本人に言わせれば、「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パン種とワインのことで論じ合っているのか」といったところだろう。 キリスト教徒の方はご存知と思うが、本来「これは私の肉であり私の血である。食べなさい。」とキリストが言ったことに始まる。しかしこの話の結論は「肉は無益」だ。つまり、イエスの言葉どおりだとすれば、パンやワインを食らうことにあまり意味はなさそうである。ところが、聖職者が一般信者の足を洗うエピソードは結局儀式にも伝統にもならなかった。もしもキリスト教会が洗足こそを伝統的儀式として継承していたら、今の世界は少なからず違う姿をしていたことだろう。 「私は自己表現はしません。いや、描くということが自己表現であることは良く分かるのです。でも私の絵をみて、少しでもキリストの人生に興味を持つ方がいてくだされば、嬉しいですね。」 うる覚えなので一字一句正しいかどうかは分からないけれど、これが渡辺禎雄の言葉である。僕にはこの意味が良く分かる。彼の手法は確かに日本の文化の範疇と言って良い。しかしそこに表現されている世界は、日本という狭い文化圏だけのものではなくて、むしろインターナショナルな広がりを見せる。逆に言えば、手法を限定したことによって、この世界は創造されているといっても良いだろう。ひとつ人生の主題を限定することが、どれほどの表現を生むものか、現代作家には彼の版画を見て是非勉強して頂きたいものである。 要するに、キリストの人生という世界中の大半の人間が知っている物語を自分の語法で描くのである。それによって、キリストは聖書の世界の住人ではなく、身近な、切実な人間となる。自分にとって身近で、最も切実で、最も愛すべき「人間」が、無残にもやせ細り、そして無実の罪で十字架にかけられ、手には釘を打たれ、死んでいくのである。遠い昔の遠い国の出来事が、突如、生々しく現実的で、まるで眼前で処刑されていくように見せるのである。例えば両親が、例えば恋人が、目の前で生きながらに手に釘を打たれ十字架に架けられたとしたら、それに本当に抗えるものだろうか。 例えばルーベンスの、あの派手派手しく、まるで天地がひっくり返っているような大袈裟な絵から比べると、渡辺禎雄の世界はあまりにも小さく、ささやかで、さりげないものだ。だからこそ美しくて痛切である。とある昔の異国のカなんとかって偉人は、人生の目的は真善美の追求である、みたいなことを言った。ここで重要なのは、最初にくるものが「真」であることだ。自己表現は「美」の管轄であって、「真」を志す者にとっては、そんなものはあまりにも小さく、全くといって良いほど重要なことではないのである。 「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」。言わずと知れたイエスの言葉だ。しかしこの言葉の前には、「あなた方も聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」という文章が付く。つまり、イエスは「真」のために当時の「善」に疑いを持ったのである。我々もパン種のことで議論をするのではなく、イエスを見習って「真」のために現在の「善」や「美」に疑問を持つべきではないだろうか。我々が信じている「美」は、本当に「真」のための「美」なのだろうか。 …などと、まるで内村鑑三ばりの無教会派キリスト教徒みたいなことを書いてしまったが、実は個人的にはイスラム教のほうにこそ興味を持っていることについては、なにとぞご容赦を。 |