横光利一
小説家…「第四人称」とは自虐的自我の正気=狂気ではないだろうか

2004年2月16日

 蟻臺上に餓ゑて月高し 利一

思えばこれも相当にウソくさい句である。つっこみどころ満載である。台上の台って果たして何ですか、と。そもそもここらへんに出没するアリって夜行性じゃないんじゃないですか、と。いや、実はこの句は昼間の空にぴらぴらっとへばりついてる月のことを歌っているのかもしれない。なるほど。いや、でも、だ。働きアリって本当に飢え死にするんですか、と。実は「アリの巣コロリ」をこっそり食べてて死にそうになっていたりするだけじゃないんですか、と。食べたフリをして死にそうなフリをして同情を引こうとしているだけではないんですか、と。こんな感じで、ざっと挙げてみてもキリが無いわけである。

当然、俳句がリアリズム一辺倒であるべきだなどとは、僕のみならず世人もみなそう思っているはずでありまして、ウソくさくてもいいじゃない。俺は餓えてるんだぜ、サンキュー、ベイベー。というわけなのであるが、しかし「俳句は花鳥風月を須らく謳うべき」だ、とか、「花鳥諷詠の俳句は極楽の文学で、小説は地獄の文学」とか、はたまた「俳句に関わる人間は須らく成仏するのだ」という賢いとも思えない無茶苦茶な発言まで残している高浜虚子が俳壇を牛耳っていた当時では、こんな地獄の使者が書く俳句モドキなんか当然歓迎されなかったであろう。横光が死んだときの虚子の反応は冷淡である。一緒にパリーに行った仲なのに。鳴かぬなら地獄に逝きゃんせホトトギス。ああ、くわばらくわばら。

しかしまあ、とにかく、僕が気になるのは、この「蟻」である。

横光利一を初めて読んだのは中学校の教科書で、かの有名な「蠅」である。なんだか蟻とか蠅とか虫系ばっかりで体が痒くなるが辛抱。ていうか、中学生には「蠅」は早いんじゃないかなぁ。と今は思うのだが、これくらい衝撃度ある作品のほうが実は教育上良かったりするんだろうか。ともあれ教科書的なニオイがしなかったので僕は好きだった。クラスの女の子たちは「こわーい」とか、そんなわざとらしい腑抜けた喚声をあげていた。

授業は結局「蠅は作者の目なんですよ」的な、ありきたりな結論で終わって、ありきたりと言いつつも、まあ確かにそれはその通りなので、僕も反対はしない。でもこれはちょっと物足りないな。蠅の大きな目をして「聡明な目」として読む解釈…そして馬車に乗り込む人々をして衆愚と象徴する解釈…もあるが、僕はこれには些か不満である。

横光の作品を読むと、僕はとても映像的な印象を受ける、というか、映像が見える。カメラワークが見える。人馬ともに肉団子状態になった惨劇を上空のカメラが目撃している。が、それとともに思うのは、そのカメラ自身が、全出演者の中でもっとも演技しているというか、演劇的というか、もっと言えば激しく演劇臭い印象を受けるのである。しかも全出演者の中でもっとも、ある意味愚かな、なさけなーい役回りを演じている。後ろ足を引っ掛けてくもの巣でブラブラゆれてる馬糞くさい蠅に比べれば、どのキャストも面白くともなんとも無い普通の人間である。普通の人間が事故に遭っているだけなのである。

「ナポレオンと田虫」の田虫しかり。田虫なのに演技している。この小説の中のナポレオンも相当に愚かっぽいが、そんな愚かっぽい男に寄生している田虫って時点で情けなさ度は格段に上である。田虫の領地も「径六寸」程度である。「春は馬車に乗って」のような叙情的な作品にしても結局構図は変わらない。「お前は松を見ていたんだな」「ええ」「俺は亀をみていたんだ」という作品冒頭の夫婦の会話からして、なんだか情けない。病気で死にそうな妻と一緒に随分と縁起の良いものを見ている。コミカルではあるが、しかしコメディーではない。カメラを持っている人、っちゅうか動物っちゅうか、田虫は動物なのか僕には分からないけれど、そいつらが作品中の一番の狂言回しなのである。

あるいは、もっとも毛色の違う、心理描写を主体に置いた「機械」のような小説にしても、バイオハザード的(ゲームのほう)なカメラアングルで映像性を感じさせるし、それに「軽部」にも「屋敷」にも、もっとも「狂人」的な「主人」にもなれない「私」の最後はどうであったろう。これは余談だけれど、とある方とメールのやり取りをしてて「『機械』でオペラを作ったら、さぞかし邪悪でしょうね」って、それは確かに邪悪だろうなあ。心理描写に失敗したら、ただ単に登場人物三人が薬品まみれで殴り合っているだけになるところもなかなか邪悪である。

餓えてるぜー、んのやろー、普段寝てる時間に起きてまで叫んでやるぜー、んのやろー、なんて、世界の中心で、飢えを叫ぶカメラ。そんなカメラってありなんだろうか。少々気になる横光の言葉がある。
「芸術はすべて実人生から一度は遊離して後初めてそこに新しい現実を形造られるべきでそれでこそ小説の小説たるべき虚構という可能の世界が展かれ、そうして、これこそ真実と言うべき美の世界であると私は思い、ひたすら人々の排斥する虚構の世界を創造せんことを願ってやまなかった。」
(『初期の作』昭和11年)
岡本太郎的というか、ホイットマン的と言うか、人生是すなわち芸術なり。おお開拓者よ、人生・イズ・ビューティフルなのよ。的な最上形のポジティブシンキングも僕は大好きだけれども、そして崇高なことではあるけれども、しかし、顔と名前を晒して舞台に出なければならない表現者なんてものは、実は恥ずかしいことこの上ない存在でしかなく、要するに見世物であり、こんなことをしなくてすむならしないほうがよっぽど人生なんぼか幸せである、ということに表現者自身が気付かなければならない。と最近の僕は痛切に思っている。

じゃ表現者やめたら?あなたが表現やめても誰も困らないよ?と言う人もいるかもしれないが、そんなものは当たり前である。バッハだってベートーヴェンだって、いなかったらいなかったで別の歴史が人間社会にあっただけの話であって、それでもなぜやめられないかと言ったら、俺らってば芸を仕込まれた日光猿軍団の猿と大差ない存在なので、もう自由になっても良いよ、とか言って森に放されちゃったりなんかしたら、リアル猿社会では到底生きていけない、か弱い生き物になっちゃっているのである。だから、表現にしがみついて生きていくしか生きる道がない我々なのである。同情してくれ、同情して、なおかつ、さらに金もくれ。というわけなのである。

「蠅」で横光はもっとも愚かな蠅こそ俺だ、ざまあみろ、と言っているのではないだろうか。馬車で崖から墜落、なんて死に方としては同情も引くし新聞にも載るしカッコ良すぎるのであって、こちとら馬糞の中に落っこちてくさーいのに誰も見向きもしないところの蠅なんだぜ、と言っているのではないだろうか。飢えている働き蟻なんてただの労働不足である。蟻の社会では2割程度の蟻が必ず仕事をサボるそうであるが、俺ってその2割のほうなのよね。と横光は言っているのではないだろうか。ってのは、ちょっと違うかもしれないが。

目の前で起きている他人の悲劇に、同情したり、悲しんだり、あるいはせせら笑ったり、濃厚な蜜の味だったり、反応は人それぞれであるが、灯台下微妙に暗しであって、果たして自分は、口が臭かったり、犬の糞を踏んでいたり、寝癖が直らなかったり、お得意先様から「キミって花菱アチャコに似ているねー」と言われて物凄くリアクションに困ったり、とか、そういう、誰も同情してくれず、悲しんでもくれず、誰もせせら笑ってくれない、蜜にも餡子にも寒天にもならない、すごく中途半端な世界の住人だったりするものである。物語の世界の中では、そのような中途半端な(であるが故に非常に現実的な存在)は却って滑稽なものである。2時間ドラマのなかで木の実ナナがアルタに行って「笑っていいとも!」を観覧していたりしたら、これは相当に滑稽である。しかも木曜日だったらホントどうしよう、である。しかし、劇中の狂気を覗けるカメラは、これをおいて他にあるだろうか。

狂気を狂気と見定められるのは正気の目でしかなく、正気であるが故に自分の正気に疑問を抱くよりほかなく、真に正気はすなわち真の狂気に至る道であるのは、それは「機械」の主人公のごとくである。芸術史の研究で一番苦心するのは当時の「現在の当然」がどのように作品に影響を及ぼすのかであって、今現在生まれている芸術作品が判断に困る代物であるのは、今現在の当然を今現在の人間が一番良く分かっていないからである。順当に「当然」な作品も判断しえず、当然、極めて横暴で無謀な前衛的作品も判断し得ない。我々が歴史を、時には数時間で鳥瞰できるのは、過去の当然は今現在の当然ではないから把握が(あるいは誤解が)しやすくなっているだけなのである。

しかしそれでも、今現在の当然を無意識に意識しつつ我々は暮らしていることに変わりは無いので、「靴は当然履くべきものである」という「当然」をいとも簡単に疑問視したチャップリンのような表現者に、いずれは尊敬せざるを得なくなるであろう。おまえさん法華の人だっけ?俺は浄土なんだよな。別々だと行き着く先がおぼつかないから、宗旨を変えて一緒に逝こう。俺に題目を授けてくれよ。あら、あなたってば、私に浄土になれと言わず、法華になってくださるなんて、(うふ)、優しいのね。なんて、こんなことをいちいち気にしている心中カップルを描いている近松だって、相当正気であったに違いないのだ。

というように、同じく、架空の世界を産出できるとすれば、それは極めて現実的な頭脳をおいて他になく、「もし文芸復興といふべきことがあるものなら、純文学にして通俗小説、このこと以外に、文芸復興は絶対にあり得ない、と今も私は思ってゐる。私がこのやうに書けば、文学について練達の人であるなら、もうこの上私の何事の附加なくとも直ちに通じる筈の言葉である。 (『純粋小説論』昭和十年) 」この論の中で、横光が「第四人称」の設置を唱えている点は注目すべきことである。

純粋に小説であること。すなわち(あるいは「結果的に」)、純文学にして通俗小説。この文学、小説という単語を音楽という単語と置き換えてみようか。その先は私の何事の附加も必要ではなかろう。「生まの現実を日記のように追い駈け廻し、これこそ真実だと云いふらすなら、書かぬ前に現実で起こっている事実の方がはるかに真実なのである。つまり、小説を随筆のように書く私小説というものこそ大嘘つきだと思ったと、」若い横光青年は憤慨しているわけである。

先に書いた「第四人称」に関して、「純粋小説論」では具体的にその方法が示されてはいないという批判もあるが、いや、すでに横光は数多くの作品で第四の「眼」の存在を垣間見せてはいないであろうか。愚を演じている「自分」という名のカメラであるところの蠅を、さらに客観視しているカメラの存在がにおわないだろうか。ともすると、そのカメラを置いている…つまり小説を書いている自分自身さえも映すカメラをも用意してはいないだろうか。そして、そのような相対的な視線だけが「傀儡を造」れるものではないであろうか。

そこで、ようやく気になってくるのが「月高し」である。蟻という名の自分のカメラが台の上で飢えを訴える、その刹那、月はただ独り、地球と自らの間にある距離を誇っている。愚である「蟻」という自分を写していた第四のカメラが、今度はそのまま浮上を続け大気圏を一瞬に突破して二つの星を映し出す。そのとき、蟻だけでなく、すべての生きとし生けるものが、所詮は蟻程度の存在と見えて、それでも台によじ登り、花に鳴く鶯、水に住むかはずの声を聞いて、いづれか飢えの歌をよまざりける。だなどと、ちょっとふざけてみたんだけれど。

横光は自分の愚と正気を演技して見せ、それを第四のカメラで映し出し、しかもこれが俺様なのだと呵呵大笑している。これが本当の「謙虚」と言うべきものである。そんな横光の現在的評価は、戦争の件によって雑多な要素を含むことになり、総じて決して恵まれているとはいえず、同じく新感覚派の雄である川端康成と比べると実に不当であるとさえ言える。月と地球を写している定点カメラは、その様子をどのように映し出しているのだろうか。純粋小説が現れないような純文学なら、むしろ滅んでしまっても良いとまで横光は言っている。一体、肝要とは何だろうか。それは「可能の世界の創造」ではないだろうか。横光の示した芸術的課題は、「純粋芸術」を志す愚かで正気な存在が出現する限り、大風のあしたも赤し唐辛子、となること請け合いであろう。


参考文献:
『日輪 春は馬車に乗って』横光利一 岩波文庫
『横光利一 文学と俳句』中田雅敏 勉誠社

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