プロとアマ
プロフェッショナルとアマチュアの差異。そして「芸術家」

2004年4月5日

まず最初に断っておくが、プロフェッショナルやアマチュアであるということと、芸術家であるということは、全く関係が無いと言って差し支えないことである。



プロフェッショナルとアマチュアの差は何か。様々な人によって様々に論じられ、様々な説を立てられた。僕はこの話から出来るだけ「精神主義」を取り除きたい。というのも、友人の演奏家がテレビで紹介されたとき「音楽は技術ではない。表現だ。」というようなナレーションが何度も入り僕は憤慨したのである。冗談ではない。これではまるで彼に技術が無いようではないか。彼は確かにヴィルトゥオーゾ的な小品を弾くタイプの演奏家ではない。むしろゆったりと美音を聴かせるタイプの演奏家である。さてもう一方には同じ楽器の他の演奏家がおり、その彼は何もかも速いテンポで演奏するのが慣わしとなっている。おそらくそのようなものを「技術」と世人は解釈するのであろうが、まったく冗談ではない。速く弾くことも技術であることに相違は無いが、しかし安定した美音を聴かせるのにどれほどの安定した技術が必要なのかを一度でも考えたことはないのだろうか。そしてその技術は厳しい鍛錬によってしか手に入れられないものであるということも。そんな簡単な想像も抜きで世間は彼を評価しているのかと思うと、僕は本当に腹が立ってならない。

技術は表現のための手段などではあり得ない。本当に表現が大事だと言うのなら、そのとき技術は不要である。そもそも手段などが必要無いではないか。そして、技術が不要となった職種にプロフェッショナルなど必要であろうか。別の職種に当てはめれば簡単に理解できる。例えば料理人。彼本人の自己主張は料理の中に含まれているかも知れないが、彼が料理を作るのは一体表現のためであろうか。いや、金を払ってその料理を食べる人が在るからこそ彼は料理を作るのである。実際には商品の提供のためには何の表現も必要ではない。芸術や音楽だけは違うと片意地を張って言い張る理由も別段無いではないか。金を払って聴く人が在るのである。だからプロフェッショナルが在るのである。食堂が在って客が入るのではない。自分が料理を作る手間を惜しんで、金を払ってでも他人に料理を作って欲しいという願望があるから食堂が出来る。故に客があるから食堂があるのである。同様に、プロフェッショナルの演奏を聴くから聴衆になるのではない。聴衆が手っ取り早く音楽を聴くために、プロフェッショナルの音楽家が必要とされるのである。

さてここでひとつ疑問が生じる。そこいらの食堂よりもはるかに美味い料理をつくる主婦は世間に五万といるもので、僕だってファミレスで出てくる料理より余程美味しいものを拵える自信がある。プロフェッショナルは技術だと言っているが、この実態はどう説明するのか。あるいは世間にはプロより研究熱心でバラバラと巧くピアノを弾くアマチュアは五万といるもので、中にはリサイタルまで開く者もあると聞く。この実態をどう説明するのか。しかしこうは考えられないだろうか、つまりアマチュアは巧くて当然である。なぜならアマチュアは情熱そのものであるから。アマチュアは情熱ゆえにアマチュアであるとも言える。何でも弾きこなせるほどの技量がアマチュアにあれば、その有り余る情熱で何でも見事に弾いてしまうことは当然のことである。必要であればアマチュアの演奏のほうが品質は良いと言い切ってしまって差し支えない。

だが僕がここで言う「技術」は上手いか下手かという単純な二元論ではない。いくらファミレスより余程美味しい料理をつくる自信はあっても、では明日からレストランを開業して何百人という人間の胃袋を満たすために厨房に入れと命令されたら僕は途方に暮れてしまう。どんなに商品の質が良かろうが、あるいは悪かろうが、客の注文に素直に応じて、安定した商品を提供できなければ、ここでいうプロフェッショナルの技術には該当しない。そしてこの「技術」を手にするためには情熱だけでは事足りないことは、容易に想像できることだろう。材料の仕入れだって、今日使う分をスーパーでというわけにもいくまい。

アマチュアで許されてもプロでは許されないことはいくらでもある。何某を作ってくれと注文を受けても、作れないので引き受けられませんと言ったら、それは間違いなくプロ失格である。「何月何日某所で演奏をしてほしい」と言われた場合、要するに客が商品を欲した時に、「あの曲は弾きたくないので弾けません」などと言って断るのは、当然ながらプロフェッショナルとして恥ずべきことである。逆に、アマチュアがリサイタルをする場合、そこに情熱が無かったらアマチュアとして最も恥ずべきことである。アマチュアが舞台に立って空席の勘定をして本日の売り上げを計算しようものなら、それはアマチュアとして厳しく排斥されて良い。もう一度思い出していただきたい。聴衆の必要がプロフェッショナルを作るのである。アマチュアは情熱そのものであるが故にアマチュアなのである。これを逆にすると、アマチュアは聴衆に必要とはされていない。そして重要なのは、プロフェッショナルであることと彼自身の情熱は無関係である。

プロフェッショナルとして非凡な才能であることと、彼自身の情熱との間には全く関係が無いと言うことを何人も冷静に認めるべきである。故に、プロフェッショナルに対して無闇に要求される「精神主義」をなんとしても排したいのである。かつて巨匠と呼ばれるべき某ピアニストがリサイタル直前に、映画を見てゲラゲラ笑っていたということで非難を受けたことがあるそうだが、こんな「精神主義」の一体何に価値なぞあろうものか。もちろん自身が表現でありたいプロフェッショナルはいくらでもいることだろう。そこを僕は全く否定していない。ただ、そのことと彼自身がプロフェッショナルであることは無関係であると言いたいのである。表現がプロフェッショナルを作るのではない。聴衆が技術ある者をプロフェッショナルに仕立てるのである。「いやいや、あの作曲家は自分で何かを表現したいから作曲を始めたと言っているよ」とおっしゃる方もあろうが、当然である。比喩などの類ではなく文字通り生まれた瞬間からプロフェッショナルな者がいたら、これは恐ろしいではないか。

プロフェッショナルは精神を厳しく追及する人であって欲しいと思う方もあろうが、これは聴衆としての我侭である。プロフェッショナルがプロフェッショナルたるためにすべきことは、実は何も無いのである。なぜなら聴衆がプロフェッショナルを作るからである。客が食堂を作るからである。客がその食堂を必要としなくなったら勝手に食堂は消えるのである。聴衆が必要としなくなったら、その彼は勝手に消えるのである。確かに"埋もれた名店"や"埋もれた作曲家"は、いる。それは偏にプロフェッショナル自身の宣伝能力の欠如であって、ただそれだけのことであり、消えるべくして消えた店、消えるべくして消えた作曲家を掘り起こして"埋もれていた"とするのは、無理のあることである。客の舌が間違っていなければ美味しい店は地域から消えない。聴衆の耳が間違っていなければ良い音楽家は歴史から消えない。さて、聴衆という権力がどういうものかお分かりになったであろうか。権力とは何か、権力とはどれほど責任あることなのか、どれほど心細いことなのかお分かりになったであろうか。自身の判断能力の是非や正否を常々疑問に思わない、反省の無い権力は、権力として厳しく排斥されて良い。だからこそ、冒頭に掲げたテレビのナレーションの例を僕は厳しく排斥する。プロフェッショナルの演奏を聴く立場として、あまりにも酷く間違っているからである。




すべての職業は誰かの代行を務めるから成り立つのである。法律を勉強するのが面倒な人たちが弁護士を作り、金勘定の面倒な人たちが会計士を作る。自分で腹を切って手術を施すのは物理的に無理であるから外科医を要求する。そこまでは理解に苦しむことは無いと思う。しかし例えば料理人の場合、料理人自身の我侭を尽くした料理を作り、高額の代金を要求することがある。この代行者の我侭をどう判断するのか。これは代行者が自己主張を始めたのであろうか。いや、これもまた自分の代行者である。なぜなら自分で高級食材を仕入れるのは面倒だからである。調理も専門家に任せたほうが安心である。しかし、これが「限定20食」などという触れ込みになったとき、この代行者の我侭をどう判断するのか。代行者が自己主張を始めたのであろうか。自己主張のために、その一品を要求する21人目を切り捨てて良いものだろうか。

僕はこの場合、良くないことだと答える。法律にまつわる仕事をするわけでもないのに六法全書を読み込むような者は、これは情熱そのものであろう。だが、法律にまつわるプロフェッショナルは情熱をもって六法全書を読まなければならない必要性は全く無い。要するに、プロフェッショナルに情熱はいらない。プロフェッショナルにとって情熱はどうでもよいことである。むしろ逆に、プロフェッショナルが情熱を持つことは間違っているとすら言える。なぜ限定20食なんてメニューを作る必要性が料理人にあろう。料理人の存在意義は客の注文に答えることであるのに、これはつまらぬ自己主張ではないか。プロフェッショナルに我侭はあってはならないことではないか。

無論あってはならないことであるが、しかしこうも考えられないだろうか。つまり不必要な、むしろあってはならない我侭こそはプロフェッショナルが芸術家になる入り口であると。「芸術とはテクニックに何かが加わったものだと思う」と言った人があった。安定した技術に何かが加わるとき。"何か"とは何か。この人は"人間"だと言った。しかしこの言葉は注意が必要である。一歩間違えば排すべき「精神主義」そのものになるからだ。だから僕は、より誤解を少なくするために"我侭"と言おう。テクニックに我侭が加わったとき、それは芸術になる。限定20食は、つまり料理人の芸術に他ならないのではないか。これは芸術であるから、別段全ての客の腹を満たす必要のある代物ではなくなる。これは芸術であるから我侭は許される。では芸術であるために我侭を通すことはプロフェッショナルにとって正しいことなのか。無論、僕は間違っていると言わずにはいられないのである。

何度も言うが、プロフェッショナルが自分の我侭を追及することは間違っている。それ以前に、人が人に対して自分の我侭を通すよう要求することは傲慢以外の何物でもない。しかし傲慢だからこそ芸術は発生する。つまり芸術とは何もかも間違っているものの代名詞である。人が音楽を聴きたいときに聞かせることができれば音楽家の存在意義は成就するのであって、自分が納得するまで弾き込みたいなどと言って引きこもるのは間違っている。しかし自分の芸をより深めたいと望むならば、自分がますます間違うより他にないのである。逆に言えば、間違っているからこそ芸術である。この言葉に拒否反応を起こすものは次のように考えればよい。つまり、自分は何もかも正しい存在であると考えることは間違いなく間違っている。しかし自分には何かしらの間違いがあると考えることは正しいことである。自分はまるで間違っていると考えることは、むしろ価値あることであるかも知れない。

このとき、どうして芸術家になったプロフェッショナルである者が、客の"間違い"などを指摘できる立場にあろうか。我侭を言っているのは芸術家である。客の間違いを指摘できる立場の者は客本人以外にはいないのである。先ほど例のテレビのナレーションのことを"間違っている"と僕は言ったが、これは僕もまた彼にとっては聴衆のひとりであるに他ならないからこそ言っているのである。それはともかく、一番間違っているのは芸術家本人である。間違いそのものが芸術家であると言い換えても良いが、しかし間違えばそれで芸術家の出来上がりであるなどとは到底言ってはいけない。間違えていればそれで良いなどと考えるのは宜しくないのである。なぜなら間違いは間違いに変わりなく、しかもそれは反省すべきものであるからだ。アマチュアが間違ってみたところで、それはただの間違いにしか過ぎず、芸術家になれるわけではない。それに折角人間として生まれているのに、わざわざ異形の勿怪になろうとすることも無いではないか。

アマチュアが芸術家であろうとする場合、それは情熱であり陽性であって良い。何を思い悩む必要があるだろう。純粋に音楽を楽しめばそれで良いではないか。まったく素直に自己を開放すれば即ち芸術になるであろう。しかしプロフェッショナルが芸術家であろうとする場合は、それは反省であり陰性でなければならないのではないか。本来自分は客に商品を提供すればそれで事足りる存在であるはずである。それなのに自分は我侭を言い、あろうことか客を限定するのである。これは深い反省に基づいた行為であらねばならないのではないだろうか。僕は、そのように反省して初めて、プロフェッショナルが芸術家であることを許されるのではないかと、最近殊に考えるのである。故に、自分の存在自体にまったく無反省なプロフェッショナルの芸術家は、厳しく排斥されて良いであろう。

僕自身は、プロフェッショナルの芸術家として自分を捉えているからこそ、自己実現という言葉の代わりに自己否定という言葉を、尊大という態度の代わりに恐縮という態度を用いて良いのではないかと思っているのである。勿論、僕の態度はかつては尊大であったことを認めるが、それは最終的にはアマチュアの芸術家でありたいという心情からではなかっただろうか。やはり甘い態度である。果たして、プロフェッショナルが偉いのではない。芸術自体が芸術として偉大なのである。アマチュアの芸術家は情熱だけで偉大な音楽に挑みかかるからこそ偉大なのである。プロフェッショナルの芸術家は、芸術に無条件に隷属するからこそ、芸術の意のままに体を操られるからこそ、プロフェッショナルの芸術家として存在することを許されるのである。芸術の意を聞かねばならない。だから自己の全否定が必要なのである。聴衆が生み出すのはプロフェッショナルであったが、芸術自体が芸術自体の意思として生み出すものがプロフェッショナルの芸術家である。逆に、芸術が無ければアマチュアの芸術家は生まれないものである。蝙蝠として生まれたならば蝙蝠として生きねばならない。蜥蜴なら蜥蜴としてだ。決してイルカになろうとしてはいけない。自分の生を思い定める諦観だけが、即ちプロフェッショナルの芸術家の存在意義である。

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